10回生 石橋正敏 (1997.08.08証言)
あの日の長崎は、朝から真夏の空に真っ白な入道雲が広がり、戦時とはいえ、おだやかな一日が始まった。私と弟は、朝食後庭に出て、いつものようにチャンバラごっこをして遊んでいた。夏に防空ずきんをかぶるというたえがたい通園生活が夏休みとなり、開放感いっぱいの日々であった。父と女中達はそれぞれの用事ですべて出払い、家には子守りと妹がいるだけである。
突然の空襲警戒警報が鳴りひびき、高い空にb29の銀色の姿が浮かんできた。その悠々とした機体のはるか下の方で、高射砲の弾が炸裂し、白い煙を空に散らしてゆく。
b29は、まるで救援物資を落とすかのように、落下傘を浮かべて去った。「きれかねぇ」といったとたん、真夏の陽光を圧するようにピカっと信じがたい光が輝き、音はあまりにも大きすぎて、鼓膜よりも体でうけとめるという感じであった。子守りがすっとんで来て、裏庭に掘られていた防空壕へかきいだくようにして連れ込んだ。
むっとして、耐えがたい暑気と温気が身をつつむと、父のいない心細さが広がってゆく。私は子守りの制止をふり切って、ひとりで表玄関までかけ出していた。玄関までゆく途中に、家の中のガラスというガラスが吹きとんでこなごなにくだけて、そこらじゅうがキラキラと光っている。門柱のそばに立って父を待った。
どれほどの時が過ぎたか、突然、国防服に戦闘帽、足にゲートルをまいた大きな父の姿がものすごい勢いで走りこみ、無言のまま私を横抱きにして防空壕へと走った。
「すぐに山の防空壕へ行け!」と父は命令すると私達と子守りを先に送り出した。防空壕は、その年の春、若くして逝った母が餅が好物だったので、春になるといつもよもぎ採りに行ったところにあった。岩盤をくりぬいた大きな壕は、前面に爆弾よけの大きなコンクリートの壁を建て、中には畳を敷き、タンスまで入れてあった。
父と女中達は、握り飯をいっぱいもって、午後遅くなって登ってきた。
長崎の夏の夕方のたえがたい凪がすぎると夜半、火災が街の高台を焼きつくしてゆく。山の防空壕の前に立つと、その熱気はたまらなく熱かった。
炎は、高台に建つ官庁街を焼き尽したが、幸いにも旧市街の中心部は焼けずに残り、わが家も無事であった。
私の家の前は、思案橋という電車の終点になっており、その空地に大きな穴が掘られた。爆心地の方から、死体が電車やトラックで運ばれ、次々にその穴にほうり込まれてゆく。うず高くつみ上げられた死体に重油がかけられ火をつけられた。どす黒い煙と、たえがたい悪臭がたちこめ、それが消えるまで誰も食事ができなかった。
再び、子供達には何ごともない普通の日々がもどっていた。チャンバラごっこをしていると、「坊や達、親戚のもんばさがしよっとばってん、いっしょにみつけてくれんね」と、おばさん達にいわれて、棒でしゃれこうべの山をつついてゆく。「金歯があるけんわかるとよ」と、おばさん達はいう。ほんとうに親戚をさがしていたのか、金を集めていたのか、子供達には知るよしもない。