右の絵は原子爆弾特有の「キノコ雲」である。この雲の真下を左の頬と左肩から血を流して逃げ回っていた私には、当然ながらその光景を見ることはできなかった。
若いころの私の手記には、当時の情景を次のように書き留めている。
『・・・・私は、とにかく山の中に逃げ込まねばならないと思いひたすら山道を駆け登った。真っ青に晴れわたっていた空はだんだんと黒い雲に覆われていった。しかしながら見下ろす街は時間が止まったかのように物音ひとつしない静かな佇まいであった。まだ火も煙りも出ていなかったように思う。
そして、未だに強烈に脳裏に焼きついているのは、遥か長崎湾の彼方の黒い雲の切れ間からいく筋もの太陽の光が点在する島々を鮮やかに照らしだした、えもいわれない美しい光景であった。
この美しい光が平和を招くことになろうとは、何んという皮肉な運命の神のいたずらであろうか・・・・・』
昭和20年8月9日(木)午前11時2分
今から57年前の長崎の朝はいつもと変わらず静かに明けていった。『今日もまた暑くなりそうだなあ・・・・』と空を見上げ、下宿の人が乏しい食材で作ってくれた弁当を手にして、いつものように午前6時ごろ下宿を出た。
行く先は、浦上駅に近い茂里町の「三菱兵器工場」である。
私は、当時、長崎工業経営専門学校(現長崎大学経済学部)の学徒報告隊として同工場に動員されていた。工場に着いたのは午前7時まえだったと思う「潜水艦等の魚雷」を造る工場で、私の仕事は機械工場に属し各工場の故障した機械などを修理する係であった。
粗末な生地のワイシャツにオンボロズボン、素足に下駄履き姿でもっぱら工場内の機械類の修理に飛び回っていた。
工場に着いてまもなく、多分午前8ごろだったとおもうが、空襲警報のサイレンが高々と鳴り渡った。『警報と同時に弁当をもって避難する・・・・』
とっさに所持品置き場に弁当を取りにいかねば、と思ったがこの日は少し時間が早かったのと、修理に行った工場が正門に近かったので弁当をあきらめ目の前にある山に避難することにした。
当時の下宿住まいのわれわれにとって弁当は命の次に大切なものだったのである。
いつものように避難場所に寝転がり、主として食べ物のことなどを話題にだべり、むしろ空襲警報を楽しんでさえいたのである。
ところが、その日に限り警報が予想外に早く解除になり、一同がっかりして?工場に戻ったのである。
それから間もなく多分午前10時すぎごろだったと思うが、鋳造工場に付属したわずか6帖間ほどの建物にあるコンプレッサーが故障したというのでその修理を命ぜられた。
組長と海軍工作隊の若い隊員とそれに私の同僚の計4名で出かけた。仕事中ふと空腹を覚えたので時計を見上げると午前11時5分前であった。『朝の空襲警報で避難したときに、弁当を食べておけばよかったなあ・・・』と、思いおもい仕事を続けていたところ、突然、隣の工場に通じる窓から、火の塊とも光ともつかぬものが物凄い勢いで吹き込んできて、あっと言う間に後ろの窓から通り抜けていった。
とたんに、(強烈な光を見た直後だったせいかも分からないが)部屋の中が真っ暗になってしまった。
この炎とも光ともつかない物凄いエネルギーが、一挙にして長崎の町を廃墟と化せしめ、一瞬にして幾万人もの尊い生命を奪った『原子爆弾』であったとは夢にも思わなかった。
ちょうど、隣の工場にトロリークレンが通っていたので、これの高圧線がスパークでもしたのだろうぐらいに考えて思わずその場に屈み込んでいた。ところが部屋の天井のセメントが剥げてその塊が落ちてくるし、異様な臭いがたちこめてきたので危険を感じ部屋の外に飛び出した。
外に出てみるとすぐ前にあったはずの木型室がない、足元が危なかしい。よく見るとペチャンコに潰れた木型室の瓦屋根の上を下駄履きで歩いているのである。見渡すと工場内は建物が潰れて惨憺たる状況になっている。これは、『ただごとではないぞ』『逃げなければ』と初めて危機感を抱いた。とにかく逃げなければと正門に向かって走り出すと、同じように逃げて来た人とから『お前は大怪我をしているぞ、早く表の病院に行け』と怒鳴るように言われた。
気がつくと頬、首、左肩、と鮮血が流れだしてワイシャツは真っ赤かに染まっている。
門を飛び出してすぐ近くにあった三菱病院(?)に行こうとしたら、今朝まであったはずの病院がないのである。そして、いつも見えなかった遠い所まで見通せるのだ。病院は木造だったせいもあってペチャンコに潰れていたのである。
この写真は、私が学徒報告隊として勤務していた『魚雷』を造っていた三菱兵器茂里町工場の機械工場の無残な姿である。屋根はもちろん二階の床が押し潰されて工作機械類とともに階下に落ちている。この壊滅的な工場の中でよくぞ生き残ったものであると不思議でならない。まさに奇跡、強運としかいいようがないような気がする。
病院がないとなると、出血は続いているがとにかく逃げるしか手はない。市電の井樋之口?停留所の線路を越えて前方の丘の裾にある道を左の方へと走った。途中、建ち並んでいたいた横穴壕のあたりから『水をくれぇ助けてくれぇ・・・・』という悲痛な叫び声を何回も耳にしたがどうしてやることもできなかった。
記憶が曖昧であるが、多分、目覚町あたりから右に曲がり山道を上り始めたようにおもう。道はでこぼこしており時折墓石が倒れ込んできて道を塞いでいるところもあったので、墓石の上を登っていくようなこともあった。
左手に後日有名になった山王神社の片足鳥居も見えたが、ゆっくり眺めるほどの余裕もなかった。
一度だけであったとおもうが空襲警報が鳴ったことがあった。すぐ、機銃掃射を受けると思って芋畑に飛び込んで畝の中に伏せたことがあったが何事もなく終わった。多分爆撃の後の調査に飛来したのであろう。
山はほとんどが芋の段々畑であったが、登ってまもなく畑の一隅に崖を背にして二人の女学生が座り込んでいるのに出会った。一人は胸のあたりを真っ赤に染め、いま一人はどう措置したらよいのかおろおろしていた。
どうしてこんな傷でここまでこられたのか、今から考えるととにかく必死で逃げ延びたい一心でであったのであろう。その子は悲痛な声でしきりに水を求めた。『水を、水をください・・・・・』
私はかけよって傷のあたりをみると、胸のあたりから鮮血が流れていた。何の躊躇もなく、すぐさま着ていたワイシャツを脱いで引き裂きその人の胸を縛ってやった。そんなことで血が止まるわけがない、その人の顔はだんだんと青ざめていった。
その人はしきりに水を求めた『水を・・・水を一杯でよいから飲ましてください・・・・』かすかな声の悲痛なさけびであった。しかしこんなところに水なぞあるわけがない。
ところが、奇跡みたいなことが起こった。下のほうから逃げて来た同じような女学生が水筒を肩にしていたのである。私はそれを引ったくるように手にして蓋をあけた。
いつの間にきたのか私の2~3メートル先に相当ひどい傷を負った年配の人が崖にもたれて座りこんでいた。『今水を飲ましたらいかん、飲ましたらおしまいだ』というのである。
私はかねて教えられていたことをすっかり忘れていた。そうだ『出血のひどい人に水を飲ましてはいけないのだ』しかしその人は拝むようにして水を求めているのである。私はそのとき一瞬迷ったがひょっとしたら元気を取り戻すかもわからないと考え、止められたのも聞かずにその人に水を与えたのである。
その時のさも満足したような顔と、胸ににじみ出た赤い血の色とは未だに忘れることはできない。
私はなおもひるまず山を登った。また、あの忌まわしいB29の爆音である。今度こそ機銃掃射、しかし悲しいかな芋畑には身をかくすところはなかった。あとから逃げて来た人たちも恐怖におののきながらあちこちの畝に伏せっていた。
私は機銃掃射は当然あるものと思った。いよいよ最後の時がきたかと思ったらやたらに悲しくなった。父母や兄弟の顔が大写しになって私に迫ってきたのである。しかしその時も幸い何事もなくすんで爆音は遠ざかっていった。
ほとんど山の頂上に近づいたころ私は数人の学友に出会った。まさに地獄で仏に会ったような安心感がぐっと湧いてきた。『俺は生きている、簡単に死んでたまるか』やっと自分の生を信じることができたような気がした。
私たちは、目の下のすべてが崩壊した悲惨な光景を眺めながら語り合った『・・・・・これが戦争の実相だ、われわれは今日まで軍のおかげで戦争の如何なるものかを知らなかったのだ。このくらいのことでびくびくしていたら戦争に勝つことはできない。最後の勝利はわれわれにあるのだ。今後はこの惨状を常に頭においてますます闘志を燃やし増産に励むべきだ・・・・・』
世にも無残な原爆の洗礼を受けながらまだこのようなたわごとをしゃべり、日本の勝利を信じていたのである。真実を知らしめられなかったとはいえ、われわれは何というおろかな存在であったのだろうか。私たちが山の頂に達したころ、下の街の方はあちこちから火煙りを噴き出しはじめた。それまではすべの音が途絶えて死の街と化していたのである。左手の方に八千代町にあったガスタンクが見えたが、写真の通り爆発もせずぺちゃんこに凹こんだまま黒々と見えていたのが何故か妙に印象的であった。
今まで太陽が照りつけていた青空はだんだんと黒雲に覆われていった。
私たちは山を越えて片渕町にある母校を目指して歩きはじめた。ちょうど山を下ろうとしたとき、どこからどうして逃げだし、よくもここまで登って来たものだとおもわれる全身火ぶくれになった少年に出会った。
パンツ一枚、体のいたるところに大きなシャボン玉のようなヤケドをいくつも作り、腕の皮がペロットはげて指先のあたりで止まり、それを幽霊のように前にたらしている。脚の皮も同様にはげ落ちて踵あたりで止まりそれを引きづっているのだ。目をそむけたくなるようなあまりにもむごい姿であった。少年はこのような大やけどにも拘わらず案外元気な声でわれわれの問いに答えた。
『高等科2年生の学徒報告隊。工場は三菱製鋼所、被爆のときはパンツ一枚で屋外で仕事をしていた。自分はこんなにひどいヤケドをしているとも知らず無我夢中でここまで逃げて来た・・・・・等々』
私たちは、何とか手当をしてやりたいと思ったが、何とも手の施しようが なかった。とにかく背負うことは勿論手を引いてやることさえも出来ず、ただ口先だけで頑張れ、頑張れと励ましながら私たちの先にたたせ、引きづっている脚の皮を踏まないように気をつけながら山を下った。
幸い途中に農家の方が急ごしらえした救護所があったので、少年をそこに送りとどけた。その後少年はどうなったであろうか、元気で自宅に帰れたであろうか、今でも思い出すたびに胸が痛む。
山を無事下りてやっと母校にたどり着いたが、校舎は窓ガラスが割れ壁が落ちて瓦が散乱していた。
在校中の先生、事務員、小使さんたちの親身の介抱は大変有り難かった。
特に浅野先生は、ご担当の商品陳列館から当時は全く手にいれることが出来なかったボルドー?とおぼしきワインを持ち出し『気付けぐすりだ、飲め』といって惜しげもなく茶碗についでくれた。未だかって飲んだことのない全くの貴重品、その甘美な味は未だに忘れることが出来ない。
当直室で赤チンを塗って手当をしてもらい、しばらく休養させてもらって、逃げるときに下駄の鼻緒が切れていたので、土間の片隅に古ぼけた赤緒のわらじがあったのでそれをもらって下宿へと向かった。
下宿は榎津町という長崎の繁華街にあったが、道路はいたるところに瓦やガラスの破片が飛び散り見る影もなく変わり果てていた。
途中何度か『退避』の声に脅かされたが何事もなく無事下宿に辿りついた。下宿の人達はすでに上小島町の方へ避難した後でガラ空きであった。 疲れ果てた身体を休めるために二階の自分の部屋に上がって寝ころがると、瓦の飛んだ屋根の割れ目からあの忌まわしいどす黒い雲が見えた。
窓ガラスが割れ、壁は落ち、書籍などが散乱していた。しばらく目を閉じて考えた『こんなことで日本は本当に戦争に勝つことが出来るのだろうか』とはじめて疑問を抱いた。
気が静まると空腹を覚えた。かねて下宿の人が避難していた上小島町の家に向かった。疲れ果てた身体を引きずるようにしてようやくの思いでたどり着いた。
玄関で下宿の人の顔を見たときは涙がこみ上げてきて武者ぶりつきたい衝動に駆られた。足の裏には何ケ所もガラスの破片が突き刺さっていた。古びた草鞋でガラスの散乱する道を歩いて来たせいである。なぜか不思議に痛みはあまり感じなかった。下宿の人は毛抜きでひとつひとつ丁寧に抜き取ってくれた。
『戦争は終わりだ』とつくづく感じた。
『古く言い伝えられた世の終わりの姿というべきか、将又、地獄の形相とでも言おうか、火を逃れて山に這い登る人々の群れのむごたらしさよ。傷つける者また瀕死の友を引きずり、子は死せる親を背負い、親は冷たき子の屍を抱きしめ、必死に山を這い登る。
皮膚は裂け、鮮血にまみれ、誰も真っ裸だ、追い迫る焔をかえり見、かえり見、何処か助かる空き地はないか、誰れか救いの手を貸す知人はいぬか、口々に叫びつつ、呻きつ、息も絶え絶えに這い登る。途中ついにこときれて動かなくなる者が続出する。
日が暮れた、冷たい新月が稲佐山の上に光った。谷間から『海行かば』の合唱が起こり、草の中から『賛美歌』の合唱が続き、命絶えようとする人々の心を潔めた』
私から浦上方面の惨状を聞き、下宿の人達は自分の家の娘さんの安否を心配しはじめた。その娘さんは挺身隊として、私と同じ兵器工場の城山小学校の建物の中の疎開事務所に勤務していた。
私たちはその娘さんの無事を祈りながら、それこそ一日、否、1時間千秋の想いで帰宅するのを待った。日が暮れ始めた、しかし娘さんは帰ってこなかった。
昨日までは大きな工場が立ち並んでいた浦上の街も、一瞬にして瓦礫の街と化していた。「井樋ノ口」の停留所が近かづくにつれて思わず目を覆わざるを得ない惨状が随所に繰り広げられていた。
この写真は幸町の三菱造船所の機械工場の横を走っていた市電であるが、見る影もなく鉄骨だけを残してあとはすべて焼きつくされていた。
おそらく乗っていた人達は助けを呼ぶまもなく一瞬にして圧死し、電車と運命をともにしたのではなかろうか。
この写真こそ原爆が最も非人道的な兵器であることをはっきりと象徴しているのではなかろうか。この少年は被爆して一瞬にして命を断ったのであろうか、それとも悶え苦しんで亡くなったのであろうか、もしもしばらくでも息があったとしたら何を叫びたかったであろうか、この写真を見ていると今でも涙がにじみ出てくる。『魂は無念さを叫んでいるのではないだろうか』
写真の説明にもあるとおり動員学徒の一人であることは間違いないと思う。私も場所ははっきり記憶していないが、この人の無残な姿をこの目で見て思わず立ちすくみ、胸が激しく脈打ってその場で手を合わせたことを記憶している。
いくらお互いが憎しみあう戦争でも、少年をこんな姿にしたアメリカの人達は一体どのように考えているのであろうか。
核兵器がいかに残虐であるかをこの写真を見て改めて肝に銘じてもらいたいと思う。文字どおり『悪魔の兵器』である。
私たちは浦上駅前から岩川町を通りまずは浜口町を目指したが、灰燼に帰するという言葉があるとおり、燃えるものは総て燃え尽くして瓦やトタンなどの残骸物が一面に散乱しているため道路の区別もつかず、多数の無残な死体がごろごろと横たわっていた。
真っ黒焦げになった死体、上半身はそのまま焼けずにぐっと虚空を睨みつけている人、よほど喉が渇いてようやくたどり着いたのであろうか、流れっぱなしになっている水道の蛇口に口をつけたままの姿勢で息絶えている人。数えあげれば枚挙に暇がなかった。
浜口町あたりから左に曲がったつもりであったが、記憶に自信がない、ひょっとしたら大橋まで行ったような気もする。とにかく浦上川を渡り川に沿って城山小学校(兵器工場の疎開事務所)を目指して歩き続けた。
浦上川に沿って行くとその惨状はまた目を覆うほど酷かった。喉が渇き切って、あるいは焼け爛れた身体を冷やすために水を求めてわれ先に川に 飛び込んだのであろうか、そのほとんどの人が半裸または全裸で浅瀬の中で重なり合い、ある人は水中から片手を突き出して憤怒の表情で中天をぐっとにらみ、また、ある婦人は赤ん坊をしっかりと胸に抱きしめて水の中に静かに横たわっていた。
在りし日は長崎市でも閑静な住宅地のひとつであった城山の落ちついたたた住まいも、まったく見るかげもなく崩壊していた。私たちはその丘の一角にそびえ立つ校舎(その時はかっての瀟洒な白亜の校舎も大きく崩壊していた)の中か、あるいは校庭の横穴壕に無事退避していることを祈りながら坂道を登っていった。構内に入ったとたん、私たちの祈りは打ち砕かれたことを感じた。
崩れた校舎の陰や校庭の芋畑のなかに無残な姿の人たちが多数倒れていたのである。
私たちはしばらく口をきくことができずに呆然と佇んでいた。倒れている人の中にはまだうごめいている人もいたが、たまたま大変痛ましい光景にぶっつかった。
体格のいい娘さんが芋畑のなかに倒れていた。その人のお尻のあたりの筋肉はあたかも猛獣の爪で引き裂かれたように削りとられていたのである。
ふと気がつくと、やはり誰かを探して歩いていた年配の婦人が慌ただしくそこに駆け寄り、顔を見るやいなや気違いのようになってその人の名を呼びはじめたのである。
しかし、最早や呼べども答えない姿に変わり果てていたのである。それでもなおその人は呼び続けた。そして持っていた風呂敷包みをとき「ゆかた」を取り出して静かに着せかけた。さらに新聞紙の包み(多分食べ物であったのであろう)を頭のところに置いて泣き崩れてしまった。その人は言うまでもなく母親だったのである。
わが娘の無事を信じ、うまく巡り会うことができたら、おなかもすいているだろう、着物も汚れているだろうと母親らしい細かい心づかいも空しく、わが子のしかもあまりにも無惨な姿に接したときの母親の気持ちは、私には到底想像できるものではなかった。
しばらくするとその人は頭をもたげ放心したような顔つきで、まわりの人に娘さんが息をひきとるまでの様子を聞きはじめた。
『その人は夜中ごろまではまだ生きておりました。そしてしきりに水を求めておりましたが、いつの間にか息を引き取っていました。私たちはどうすることもできませんでした』と答えていた。
あまりにも痛ましい光景をそれ以上見ていることはできなかった。ことに下宿の小父さんとしては『もしわが子があのような姿で今頃水を求めていたら・・・・・』と考えたらじっとしてはおれなかったのであろう。私を促して運動場の周辺に掘られた横穴壕の付近を探しはじめた。
横穴のまわりは、すでに息を引き取った人、まさに引きとらんとして喘いでいる人、傷の痛み、喉のかわきを訴えている人達でいっぱいだった。
まだいくらか元気が残っている人たちは、私を拝むようにして水を乞うのである。なにひとつしてやれない腹立たしさ、もどかしさ、私たちは逃げるようにしてその場を去り次の壕へと向かった。
私は用意してきたローソクに火をつけて壕の中へそろそろと入っていった。一人ひとりに火を近づけて顔をあらためながら奥の方へと進んでいった。死臭のただよう壕の中で、ぼーとロ-ソクの明かりに浮かび上がった血だらけの人たちに顔を近づける私を想像してもらいたい。
大変迂闊であったが、私が進むたびに壁の土やローソクのロウが落ち、それが誤ってまだ息のある人たちの身体に触れたときの異様なうめき声は、未だに私の耳の底に残っている。
私はこのようにして幾つかの壕を探し回ったが娘さんを見つけることはできなかった。
私たちは偶然娘さんの消息を知った。同じ職場に勤めていた人に出くわしたのである。被爆時はどのような状況であったのかよくわからなかったが、娘さんは全くの無傷で皆を励まして壕に避難させたあと自分はどこかに立ち去ったとのことであった。
小父さんのそれまでの沈痛な顔がふとほころんだような気がした。私たちは後ろ髪を引かれるような思いでその場を去った。少々元気が出て城山一帯をほとんど隈なく探しまわったが、娘さんの消息はつかめなかった。見栄も外聞もなく照りつける真夏の太陽のもと、年老いた体をものともせずひたすらわが子を求めて必死になって名前を呼び続ける父親。子を思う親の愛がいかに深いかを目のあたりにして、何回となく涙を拭いた。
城山をいったん後にして大橋-浦上天主堂-山里町-駒場町-松山町等到るところ死屍累々の中を汗をふきふき探し回った。
この浦上地区は、昔からキリスト教の信者が多く住んでいる地域であった。その信仰の中心となっていたのが素晴らしいステンドグラスがあった赤レンガ造りの「浦上教会」であった。
下記の写真は被爆直後の浦上天主堂を中心とした周辺の無惨な光景である。私も翌10日にこのあたりを隈なく探しまわっているので、この光景ははっきりと瞼に焼きついている。
浦上天主堂は、幕末から明治維新にかけて幕府の弾圧を受けながらもこれにめげず信仰を守り抜いた人たちが、かつて「踏み絵」を強制された高谷家の屋敷あとを買い取り、赤レンガを一枚、一枚積み上げて30年間の歳月をかけて大正14年(1925年)に築き上げたものである。大浦天主堂と比べて遜色のない立派な教会であった。素晴らしいステンド・ガラスの窓はいまもはっきり覚えている。
神は敢えて試練を与え賜うたのであろうか、原爆はほぼこの空の近くで炸裂している。被害者は、浦上教区12,000人のうち8,500人が昇天したといわれている。
どうせ負けるのなら何故一週間でも、否、一日でも早くやめられなかったのか、私は初めて政府や軍部に対して腹の底から激しい怒りを感じた。
捜しまわっていた娘さんの消息を知った。被爆したときは、前記のように三菱兵器の疎開事務所となっていた城山国民学校の3階で執務していたそうであるが、孫悟空ではないが、激しい爆風に乗せられてファーと校庭の芋畑に運ばれていたそうだ。そのせいか、3階から吹き飛ばされたものの奇跡的に全く無傷であったとのことである。そして校庭や横穴で怪我をして呻いていた同僚等の介護に走り回っていたそうである。本人自身はその限りにおいては全く信じられないくらい幸運であった。
しかしながら、やはり原爆は悪魔の爆弾であった。彼女はまさに奇跡的にヤケドや傷を負うこともなく無傷で助かったが、間もなく発熱し、体に発疹などが出て10日目に苦しんで亡くなったそうである。
彼女は大変明るく、世話好きな立派な方で極端に物のない不自由な時代にもかかわらず私と弟をまるで身内のように真から面倒をみてくれた。
実は、原爆の前々日私は彼女について深堀方面の知り合いの家に物資の買い出しに行ったのである。そして7日はそこに泊まり、それなりの物資を調達して翌日長崎へ帰った。亡くなったあとそれが悔やまれた。『2~3日泊まってこいといったのに何故翌日に帰ってきたのか、もし帰っていなければ原爆にも会わなくて済んだのに』下宿の人の言い分は痛いほどわかった。しかし、あの当時学生報国隊といえども2日も3日も休暇が許されただろか、一般従業員は1日でも欠勤したらよほどの理由がないかぎり、翌日の朝礼の際に全員の前に引き出されて「入魂棒」なるものでお尻を10回も20回も気絶するほど叩かれるのである。
学徒報国隊といえども何日も休暇をとることは許されなかったのである。後日、このことで父も兄も事情がわからなかったため、ご遺族に対して大変気まづい思いをしたようである。
今年で被爆57年になるが、8月9日が巡りくるたびに私の胸はこのことで激しく痛むのである。今はただ、ただ冥福を祈り続けるだけである。
私たちは翌11日もさらに浦上の上野町?あたりまで地域を広げて捜し 回った。路傍に倒れていた牛馬は炎天のため既に腐敗し皮膚のあちこちからジュブ、ジュブと音をたてて膿が吹き出し異臭を放っていた。肉親を求める呼び声、水を求め、あるいは傷の痛みを訴える悲痛な叫び声が四方の山々にこだまして、なんとも形容しがたい異様な響きとなって続いていた。
肉親の死体を探した人は運ぶことも出来ず、どこからか木材を探してきてその場で荼毘にふしていた。再び城山付近を探していたころ、火葬を終えた親娘が遺骨を焼け残っていたバケツに入れて拝んでいる姿に出会い思わず涙をそそられた。
目を覆いたくなる惨状は昨日と変わることなくどこまでも続いていた。
しかしながらとうとう娘さんを捜し出すことはできなかった。
私は家のこと、傷の手当のことなどを考え、また、下宿の人達にもすすめられたのでその日の最終便で港外の島にある実家に帰った。
岸壁には兄弟妹の3人が迎えに出ていた。私の身を気遣って船が着くたびに迎えに出ていたとのことである。私が二日たっても帰らないため家族はなかば諦めていたようである。
父は翌朝の一番船で私を探しに出掛ける準備をしていたそうである。一家の喜びようは記すまでもない。
翌日から島の病院に通い傷の手当をうけた。左頬の疵から小指の爪ぐらいの鉄片が数枚、左肩からは数個の鉄の塊が出て来て抜き取ったあとは疵口がぽかりと空いていた。頬の鉄片はまだ残っていたが、少し深くにめりこんでいるのでしばらくとらない方がよいだろうとの医師の判断でそのままにしていた。格別痛みはなかったのでそのままにしていたら、とうとう57年後の現在でもまだめりこんだままになっている。
8月16日、下宿の娘さんの安否を知りたかったので長崎へ出向いた際にはじめて終戦を知った。
島に帰ってから傷を治すために毎日病院通いをしていたが、肩などの傷口の肉が一向に元どおりにならず、医者もしきりに首を傾げていた。
そのうち間もなくして身体がだるくなり、髪の毛も抜けて来た。とにかく何もする気にならないのである。暑いせいもあったが毎日ごろごろしていた。
「原子病」といって、例え生き残った者でも被爆者は、いずれころころ死んで行くという噂が広がった。確かに被爆したが爆心地から離れていたため格別負傷もせず帰って来た後輩が、1カ月過ぎたころぽっくりなくなった。日がたつにつれて抜け毛も目立ってきた。病院には相変わらず毎日通ったが治療の方法もなく、傷口も一向にふさがらなかった。
『私もやはり原子病で助からないのでは?』家族も大変心配して、田舎の人の噂を信じ、梅干しを毎日たべたり、柿の葉っぱがよく効くというので何回も煎じて飲まされた。
これが効果があったのかどうか分からないが、1カ月ほどすると傷口の肉もようやく盛り上がってきて、身体のだるさも少しずつ持ち直してきた。
学校は、既に9月15日から再開されていたが、私はやっと11月から復学することができた。
◎被災者 | |||
死 者 | 73,884名 | 負傷者 | 74,909名 |
被災人員 | 120,820名 | 当時の長崎市の人口 | 約210,000名 |
◎建物 | |||
被災戸数 | 18,409戸 | 全 焼 | 11,574戸 |
全 壊 | 1,326戸 | 半 壊 | 5,509戸 |
原爆の惨禍は被爆時だけでは終わらなかった。被爆者特有の放射線による後遺症いわゆる一般に『原爆症』といわれている、 白血病や甲状腺障害、そして各種のガンなどが被爆者を侵して毎年尊い犠牲者は後を断たなかった。
被爆57年目の平成14年の長崎、広島で過去帳に納められた方は以下のとおりである。半世紀以上も経った現在でも原爆の恐怖は終わっていないのである。
県 | 平成14年過去1年間死者数 | 累計死者数 |
長崎 | 2,564名 | 129,093名 |
広島 | 4,977名 | 226,870名 |
合計 | 7,541名 | 355,963名 |
これは広島の原爆供養塔に刻まれた、生き残った者の堅い誓いである。どんなことがあっても絶対に破ってはならない誓いである。
この誓いを間違いなく実践していくためには、あの惨状を決して風化させてはならない。
これだけは生き残った者の最低の責務として、いつまでも、いつまでも語り継ぎ、文字どおり過ちを二度と繰り返さない戒めとして、常に確かめ合っていかねばならない。
原爆の犠牲者は、長崎の被爆者をもって最後となすべきである。もう二度とこの世にあの地獄の惨状を現出してはならない。そのためには核兵器の廃絶が絶対の要件である。
『過ちは二度と繰り返しません』
被爆者のご冥福をお祈りするとともに、常にこの言葉を肝に銘じて、今後とも核兵器の廃絶に向かって力強く歩き続けてもらいたい。
ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよの あるかぎり
くずれぬ へいわを
へいわを かえせ