「スペイン巡礼路はスペイン北部にある800kmの道」
スペイン北部にある「星の巡礼路」はフランス国境から800kmの1000年の歴史を持つ古道。東のピレネー山脈の峠から西のサンチャゴ大聖堂まで美しい古道が続く。この巡礼路の特色は、道路や電柱や標識に黄色い矢印があり、地図なしでたどれること。そして、10ないし20km毎にアルペルゲと呼ばれる巡礼宿があり、無料かこころざし程度の殿お布施で泊まれること。
そして、この巡礼路の楽しみは、日々何が起こるか予測できないことにある。
キリストの使途でありスペインの守護神であるヤコブ、スペインでの呼び名はサンチャゴ。巡礼路800kmの目的地は、そのサンチャゴを祭った壮大な大聖堂。徒歩なら30日。自己発見の喜びと試練の旅が続く。
たとえば、このように、四方一面麦畑の中に一筋の巡礼路が連なっている。
無料に近い巡礼宿に泊まれる条件は、馬か自転車か徒歩で旅すること。徒歩なら、おおよそ約30日。安全な道でもある。小さな男の子が父親と歩いたり、一人旅の少女まで、夏は1日20人~100人前後さまざまな老若男女が歩いている。どこからででもいい。巡礼宿で巡礼者手帳をもらって、歩き始めたら、もう貴方も巡礼者。
追いつ追われつするうちに、いつしか皆顔見知りになり挨拶を交わす仲になる。
「美しい一筋の巡礼路」
スペインの北の大地は地平線の彼方まで乾いた麦畑の丘陵が続く。散在する緑樹と人家の赤い屋根がそれに彩りを添える。高い丘から下っていくと、麦畑の向こうに教会の尖塔が見えてくる。オリーブの木陰があると、大抵、顔見知りの笑顔が待っていた。
丘陵を越えて下ると、また小さな宝石のような町が見えてくる。先に進むのが惜しくなると、腰を下ろしてまた一枚描いた。
「峠のモニュメント」
スペインは芸術の国、モニュメントも銅像ばかりではない。素材も表現も多彩であった。麦畑のうねる丘陵をたどって丘に上がると、行く末の広大な丘陵の展望が開けた。そこには鉄板を利用したユニークな巡礼者のモニュメントがあった。鉄板を切り紙細工のようにくりぬいたもの。馬も少女のシルエットも表情豊かだった。
数枚の水彩画を仕上げて、美しい丘陵の中を、今夜泊まるオアシスのような緑濃い町に向かって下っ ていく。緑樹の散在する村々の赤い屋根と褐色の麦畑。変化に満ちた美しい丘陵が続いていた。
「橋のそばの巡礼宿 」
1000年の歴史のある巡礼路800kmには、各町の人々の好意で、古い修道院や教会が宿として用意され、予約なしで泊まれる。たいていは、男女同室の広い大部屋なので、いろんな人と友達になれた。
「巡礼者は多国籍」
イタリアから、フランスから、ブラジルから、巡礼者の先祖の国籍は多様。一説では、この道を歩いた日本人は100人未満とか。女優シャーリーマクレーンも、一人でこの道を歩き、木陰でうたたねした折に、不思議な前世体験をしたと著作「カミノ 魂の道」に書いている。地平線まで続く炎天の麦畑を旅して、僕の顔も精悍で真っ黒になった。毎日,どんな人に出会えるか予測できない楽しさ。一緒にサラダを作って葡萄酒で乾杯し長い夕暮れを語り合った。
「麦畑の向こうの小さな村落」
巡礼路は、こんな風に麦畑の中を、車の通らない道が美しいたたずまいで果てしなく続いている。そんな道を一日進んでいくと、やがて緑の樹木で囲まれた新しい町が見えてくる。更に近づくとの教会の尖塔が見えはじめる。旅の終わり頃の葡萄酒が美味しい緑の多い町にくると、コウノトリがその尖塔に大きな巣を作っていた。
「スペインは敬虔なカトリックの国」
どこの町にも教会があり、どの教会にも凄惨なキリストの磔像と優しいマリア像とがあった。考えてみると、たった一人の悲惨な死に方をした青年の語った言葉が、何故、世界の33%もの人に影響を与えたのか。ローマ帝国が国教と認めたからか?異教徒は帝国から追放したから?語った言葉に真があったから?それ以来、なぜ人は自分自身の魂を信じて生きることをやめたのか?ギリシャ時代に人間が持っていた豊かで奔放な創造力はなぜ失われたのか?疑問は湧き上がってきたが、この国の人に問うのはためらわれるほど、生活そのものに定着していた。
「さまざまなマリア像」
当初ローマ教会はキリストの磔像のみでスペインにキリスト教を伝えるのに苦労したと言う。
スペインが母系家族的傾向が強いことに着目してマリア像を前面に出してようやく広めることができたとか。
そのおかげで、行くさきざきの教会で美しいマリア像が絵を描くものの心を癒してくれる。
「キリスト教の普及と功罪」
巡礼者と率直にこんな議論をした。
ギリシャ時代の人々は美しい魂は美しい肉体に宿ると肉体や性を賛美肯定した。天空を支配する神ゼウス自身、白鳥の変身して誘惑したり人間と同じようにふるまう。人を束縛する教義や聖書もなく人々は自由奔放に創造性豊かに生きた。キリスト教が生まれてから、人は原罪を持つ罪人、肉体は抑圧すべきものに変わった。当初は、神にばかり頼らず自らも生きるべしというベラギリス派など諸派があった。しかし、聖アウグスティヌスが、他派を弾圧。若い時、放蕩して愛人や子供を捨てた聖アウグスティヌスは自分を罪人、性的欲望は悪で抑圧すべしと思っていたからだった。ヨーロッパを支配したローマ帝国の国教となった後、中世には容赦ない異教徒への弾圧があったために急速に普及していったのではないかと。
まだ幼くて意思が固まる前に幼児洗礼で神の子として認定され、親も周囲もみなキリスト教という環境に、私たちがもし生まれていたら他に選択の余地がなかっただろう。しかし、国教となった後は、司祭階級が人々を支配し抑圧する側面をもっていた。法王や司祭の選挙では、教会間で金銀財宝が賄賂としてゆきかった。スペイン戦争では、教会が民衆の焼き討ちにあったところもあった。キリストもモハメッドも生まれずに、人々が何の束縛もなく創造性豊かに自分の人生を自由に生きたら、もっと多様で豊かな人間性が生まれたのではないだろうか。たしかに磔になって死んだ青年の言った言葉は画期的なものであった。現在のような束縛の多いキリスト教をキリスト自身は望んでいなかったのではという巡礼者も多かった。
「旅のガイド」
サンチャゴ・デ・コンポステーラとは
サンチャゴ巡礼路の距離
スペイン側からは、ロンセスバーリエス峠から800km。仏のピレネーのふもとサン・ジャン・ピエ・ド・ポー
からピレネー越えで830km。パリから約2000kmを歩いた人もいた。
主な町の特徴と体験
巡礼者同士の会話
スペイン人は日本と違って、どうも米国嫌いが多い。そのせいか田舎の人はほとんど英語を話さない。米国人の巡礼者も、あまりみかけない。しかし巡礼宿では、たいていの若者は英語を話す。議論が白熱した仲間同士では、スペイン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語が飛び交う。
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