口腔外科医の27回生、道脇幸博さんが、『口』の復権をめざし『口』の気持ちを代弁する爆笑メディカル・エッセイ。
このページを見て、「うんにゃ、目にも言わせろ」とか「耳鼻を忘るんな」とか反論のある医師の方は、筆者までなぐり込みをかけてください。(^_^)
あるいは、「俺にもページを作らせろ」という方は事務局へお申し出ください。
自分の口に不満のある方は、ドクター道脇に相談するといいかも。
それに比べて、俺を動かす神経ときたら脳から出て、曲がったり、方向を変えたりしながら長い道を経て、それぞれ舌だの顎だの唇だの軟口蓋(のどちんこ)だのに達する。長い経過を経て、やっと目的地に着くもんだから、途中で考えを変えたり、捩れてみたり、ひねくりまわしたりすることだってある。本心とは異なった言葉が出てきたりもする。『口は災いのもと。』かと言ってそれを俺のせいにするのは如何がなものか。
まてよ、それでも俺はそういえば他のこともやっているな。食べたり、味を感じたり……。
そうだこれは目にはでけん……。俺の独壇場ばい。
余りにも普通のことなので気がつかんことが多いが、食い物のおいしさを感じているのはこの俺だ。正確には舌と軟口蓋のどちんこそして咽頭であり、もっと細かく言うと味蕾細胞が味覚の受容体だ。
ところで味には4種類があるのは知っているだろう。甘い、塩味、苦い、酸っぱい。henning(1921年、ドイツ)の4原味説だ。単純な奴はこの4の味の組み合わせで食物の味が決まるという。バカいっちゃいけない。渋いだの辛いだのはどうなるんだ。
日本には『うまみ』というのがある。だしの主成分だ。日本人が発見した。明治41年のことだ(池田菊苗、1908年)。今では数種類のうまみ物質も発見、抽出されている。うまみはhenningの4基本味とは異なるものだ。しかし西洋人はなかなかこれを認めようとしなかった。うまみを感じないのだろう。だしの味わいがわからんのだ。断っておくがうまみというのは、まずいの、うまいのと言ううまみではない。先の4基本味と同じく、あくまでも味覚の一種だ。だから西洋人が今もって『あごだし』の味わいがわからないとか、味に鈍いという意味ではない。間違いなきよう。食文化は民族の歴史や習慣、環境と不可分 だ。民族によって、地域によって、さらには個人によって違いがあるということだ。
ところで食物のおいしさを決めるのは何も味覚だけではない。硬さ、軟らかさ、温度、形、歯ごたえ、果ては俺の役目ではないが色(視覚)、臭い(嗅覚)、雰囲気までいろいろだ……。
しかし、見てみろ。今挙げたことのほとんどは俺の仕事だ。そのためか、俺のの表面(粘膜)は指先と同じように感覚が鋭くなっている。これらがすべて働いて、食物を味わっているというわけだ。ついでに言っておくと、味盲と言われる人はいない。基本の味が全くわからない人はいないのだ。さらに、味に対する感受性は一生決まったものではない。訓練や習慣によって変わる。記憶とも密接に結び付いている。脳細胞には柔軟性があることも知られるようになった。
わが子を違いのわかる子にしてやりたかったら、多種類のおいしいものを食べさせ、味あわせて、脳細胞を刺激してやることだ。ワンパターンの食生活を強いれば、例えば『じげ』の味のみに執着するような単純な側頭葉ができてしまうだろう。 あーうまかもんばくいたかー。
もっと言うと脳の中の電気刺激、インパルスとやらの単なる電流の変化をアウトプットしてやって、考えや感情という"情報"に変えているのも俺だ。俺が働かなければ、脳にはなんの表現力もない。出力できないコンピューターがなんの意味もないのと同じだ。しゃべるのが人間の最も普通の表現手段だ。確かに、文章というのもある。しかし、早くて容易で、誰でもつかえるのが会話だ。キーボードをつかえないオジサン達だって"音声入力"ならできるだろ。『牽強付会』。
どうだい。俺の偉さがわかったか。今後は発言の度に、kissの度に、(目だけでなく)俺にも感謝することだな。