地球上のぶどう栽培地は、北緯30度から50度、南緯20度から40度の間にあるが、各地のぶどうは、西アジアや南部ヨーロッパなどに自生していたものが栽培化され、人為的に移植されたものである。ぶどう自体の生物学上の生存北限は北緯53度といわれる(ほぼベルリンの緯度で、極東ではサハリンの北部にあたる)。ドイツの北緯50度を中心に広がるぶどう栽培地帯は、まさに北限のものといえるが、北に向かって異様に突出したその姿は、大河ラインが南から北に向かって流れていることと無縁ではない。
図1にみるように、スペインとポルトガルをのぞいたec内のぶどう栽培地帯は、ecのワイン法によって、栽培と醸造の両面から気象条件の等しい地帯別に、abcの3つのゾーンに区分されている。日照時間等の関係から、abの両ゾーンは白ワインが主で、cゾーンは赤ワインが主の生産地帯である。
ドイツのワインがこの北限の冷涼な気候のもとにつくられるということは、逆にそうした悪条件を克服する過程でドイツ独特の栽培上、醸造上の研究が加えられ、後述するようなさまざまのタイプのワインをもつことになるのである。
ヒユー・ジョンソンの『ザ・ワールド・アトラス・オブ・ワイン』(日高達太郎訳『わいん』みんと社、1974)によれば、ぶどう栽培の技術は、古代メソポタミアからエジプト、ギリシャを経て、紀元前1000年頃にイタリアに渡り、シーザーのガリア遠征と共に、
西ヨーロッパを北上し、ライン川を下り、さらにドナウ川を下って東欧の地へ伝わったと説明されている。
ローマ帝国の拡大は、申すまでもなくキリスト教の布教と未開地民族の宣撫によるものであり、彼らが広めた「キリスト教」と「ワイン」は、質実剛健の古代ローマの兵士・農民にとつても、肉体的精神的にこの上ない糧であった。
牧畜と小麦とぶどうをもつて北上する古代ローマの兵士にとつて、ワインは、あのコロンブスやマゼランの大航海時代の船乗り達と同様に、ヴィタミン補給源として欠かすことのできないものであった。ライン川を自然の境界線としてゲルマン諸族と対峠する前線の兵士達は、現代のnato(北大西洋条約機構)の旧西独駐留兵士達が「リープフラウミルヒ」(最もポピュラーな甘口ワイン)を愛飲し、帰国後アメリカ各地に広めたように、北限の冷涼な気候のもたらすその味香の故に、モーゼル川やライン川をさかのぼり、ローヌ川
を下って、ローマへまでも持ち帰ったのである。
ローマ帝国は、その統治の手段としてぶどうとワインをきわめて巧妙に使ったといえよう。その結果、次々とローマ化されてゆくゲルマンの諸族は、アッチラ大王率いるフン族に玉つきのように土地を追われながらも、ラインやモーゼルの各地でぶどう栽培を受け継いでゆく。アレマン族は、ブルグンド族の跡のラインの岸辺で、アレマン族に追われたブルグンド族はフランスのソーヌ川沿いにぶどう栽培を続けてゆくのである。
また、中世から近代にかけて、数百年にわたりくりひろげられた英仏の戦いは、ロワールやボルドーのぶどう園争奪の一面さえももっていた。ドイツではカール大帝と呼び、フランスではシャルルマーニュ帝と呼ぶローマ皇帝が、両国でそれぞれ建国の父、ワインとぶどうの守り神とあがめられているのも面白い。
ドイツワインの特質は、そのたぐいまれな果実酸とぶどうのもつ上品な甘さにある。その調和がくずれて酸味がかつとすっばいだけの貧しいワインになり、甘味がかつとうすっぺらな品のないワインになってしまう。その甘さは、北冷の地の人々の、日頃恵み少ない太陽への讃歌である。さんさんと太陽を浴び、肥沃な土地の栄養をたっぷりとったぶどうは、そのエキスを発酵させても、キリッとしたワインにはならない。ぶどうは、それ自身の中に、かつて砂漠の苛酷な条件の中で自生していた記憶を失ってはいない。その品種の生育圏の北限ぎりぎりのところで育ち、ぶどう自らの必死に生きようとする力を引き出すことによって、いいワインが生まれるのである。
ドイツワインは、はつらつとしたアロマ(果実香)とそのさわやかな風味が身上であり、貴腐ワインには高貴なブケ(醸成香)と、この世のものとも思えぬ、とろけるような風味がある。そうした風味の基調は、他国のワインに比して豊富なリンゴ酸とクエン(レモン)酸にあり、フランスの白ワインに顕著な、二次発酵によって生じる乳酸を最もいみきらうところにある。
こうした特質は、アルコール度が低いだけにいっそうきわだって感じられるので、アルコール飲料としての側面よりもむしろ、リフレッシュメント的であり、そのかすかな甘みは精神的な疲れをいやすのに最適である。
ドイツでは、少ない日照時間のために、力強い赤ワインを生むことができず、生産量の85%が白ワインだが、少量ながらロートヴァインと呼ばれる赤ワインや、ヴァイスヘルプストやロートリングと呼ばれるロゼもつくられている。また、シャンパン方式でつくられるゼクトは、フランスのシャンパンとは異り、単一ぶどうを使った、生一本のすっきりした気持ちのよい発泡酒である。
ロマンチックなドイツワイン生産地の旅をはじめてみよう。各地には、観光ルートでもある「ヴァインシュトラーゼ(ワイン街道)」が設けられているが、尊大ぶらないドイツ人の性格と相まって、訪れて楽しい通すじである。
マインツ大司教の領地とでも表現しようか、ドイツ最大のワインの生産地であり、中世の昔から「ヨーロッパのぶどう圧搾場」といわれたほどである。中世期、マインツ大司教は帝国書記翰長であって、ここは神聖ローマ帝国の文化的政治的な首都のようなものであったから、この山の少ないおだやかな平野に人々が群れ、ぶどうを育てたものであろう。
ローマの治下ブルグンド王国の首都であったヴォルムスは、5世紀にフン族に滅ぼされた。その悲劇を主題とした叙事詩「ニーベルンゲンの歌」はワグナーの
楽劇などで私たちにも親しいものである。16世紀にはルターの宗教改革の舞台として有名となったが、この地はまた、リープフラウエン(聖母)教会のぶどう畑があり、それにちなんだ「リープフラウミルヒ(聖母の乳)」という、駐留米軍兵士にとって何とも魅力的なワインの名称によっても有名である。
チェコスロバキアと旧東独の国境あたりから流れ来て、フランクフルトの下流でライン川にそそぐマイン川沿いにこのユニークな地域がある。ここのワインは、ドイツワインの中でも最も男性的な味香を誇っている。この地方の大陸性気候ときわめてこまやかな微気象は、個性豊かなワインを生みだす。夏の短かさは晩熟性のリースリングに不向きで、早熟性のミュラー・トゥルガウが多いが、シルヴァナーはこの地では気品あふれる最高のワインとなる。「ボックスボイテル(山羊の陰嚢)」と呼ばれる風変りな瓶につめられており、人々が浴びるほど飲みつくすため、輸出はごく少ない。これは「フランケンヴァインは、クランケン(病人)ヴァイン」といわれた、この地の人達が中世期コレラやペストにかかることの少なかった故事と無縁ではあるまい。
この地方はローマ時代の別荘地だったこともあって、ガルテン(庭園)とかハイム(家・故郷)という地名の多い田園地帯で、ドイツにおける最後の観光地である。「ドイツワインの試飲室」と呼ばれるほど、多くのヴァラエティをもっており、リースリングを中心に、モーゼルとラインのワインの性格をかねそなえたその味香は、人々に軽やかな安らぎを与えてくれる。
渓谷の美しさと酒質のすばらしさとで、世界中でこれほど魅力的な土地はあるまい。この地に「ヒンメルライヒ(天国)」という畑がいくつかあるのもむべなるかなである。砕けたスレート質の畑は、「鋤の入るところにぶどうは育たぬ」とさえいわれているが、その石ころが太陽熟をたくわえ、反射し、夜には放射するので、ミネラルに富み繊細で香ぐわしく、かすかに発泡味のあるワインを生む。酸味が快く、アルコール度の低い、さわやかでエレガントな味わいが特徴である。
この地のワインは、上流に行くほど酸が強くなり、下流に行くほど甘味が濃くなる。中流域のベルンカステルやピースポートは、その両方がきわめてバランスよく保たれていておいしい。上流には、ザール川沿いに、白ワインの女王といわれるエゴン・ミューラー家の「シャルツホーフベルガー」を代表とする果実酸のきわめて見事な辛口のワインがある。下流は、シユヴァルツエ・カッツ(黒猫)印で有名な「おみやげ用ワイン」の産地である。