長崎に長崎東・西両高校が創設され半世紀が経過した。東・西両高校とも五十周年の記念事業が、それぞれの学校で計画されている。長崎西高は創立三十周年の機会に「西高三十年史」の編さんがおこなわれ、創立当時の建学の精神や手さぐりの教育実践が語られている。明治以後の学校の歴史で、学校創立五十年というのは、それほど古く、伝統のある学校ではない。すでに皆も知っていることでしょうが、長崎は市内の旧制長崎中学・瓊浦中学の二校と県立長崎高等女学校と市立高等女学校が統合して、生徒は居住地域によって、東・西両高校に通学するという形をとって設立移行した。従って、旧制のそれぞれの学校を受けつぐことなく、新制高等学校が出発したのである。しかし時間の経過するにともなって、九州各県の伝統校といわれる学校は、いずれも旧制中学の伝統が受けつがれているのに気がついてきた。さらに全国的にも長崎のような形をとって統合された例が殆どないことが明らかになってきた。(長崎県も長崎・佐世保以外の地は旧制の中学・女学校を受けついでいる)高校三原則といわれた「男女共学」「学区別」「総合制」のうち、男女共学制をとらなかったのは関東・東北地方に多いのは何故か、原則と言いながら総合制がそれほど実施されていないのは何か理由があったのか、地区制はしっかり実施されているとはいえ、地域によっては若干異なっている等、さまざまな情報が広がってくると、長崎だけがどうしてこのようなことになったのかの疑問が残り、その真相を探る動きが出てきている。
さて、長崎の高校統合については、森永種夫先生(当時、旧制長崎中学校の教頭、後、県立図書館長をされ、長崎奉行所に残されていた「犯科帳」の翻刻出版されている)が「高校統合前夜日誌抄」(「会誌」第二号、昭和43年、長崎県高等学校長協会)として当時の統合発足までの経過を残しておられる。先生はその中で「六三三制という画期的な学制改革がどうして実施されるようになったのか、それが軌道にのるまでの経過がどんな風であったのか―中略―、それを丹念に蒐集し、冷静に客観的にまとめあげたら、りっぱな戦後の本県教育史の一編になるのではないか。―中略―今度、統合直前の私の日誌の一端を披露しそのせめをふさぎたい。」と述べられている。
この日誌抄によれば、 昭和23年7月26日、高校統合問題で校長会議が開催されるとの通達があったので、職員の意向をまとめておかねばならないので午前中に緊急職員会議を開いた。(当日は小谷校長は上京中であった。)その席上、7月17日対馬でアメリカ軍政府のキャラハン中尉と藤本学務課長が同席して高校統合について話をしたときの様子が披露された。この時、はじめて具体的に高校統合が指示されている。それによれば、対馬では男女共学による統合方法を8月5日までに提出すること、校舎は男子高校を使用すること、女子高校舎は新制中学へ渡すこと等であった。そこで長崎中学での緊急職員会議では次のようにまとめられた。
一、長崎高校(旧制長崎中学)と長崎高女(旧制県立長崎女学校)を統合して校舎は長崎高女のものを使用。
一、瓊浦高校(旧制県立瓊浦中学)と市立高女とを統合して校舎は市立高女(現在桜馬場中学)のものを使用。
一、併設中学と女子専門学校とは全部鳴滝の長崎高校の校舎に入る。 (女子専門学校とは県立高女に併設されていた専攻科を指している。執筆者注)
その日の午後2時からの校長会議では、藤本学務課長から統合についての説明がなされた。(校長の代理として長崎高校からは森永先生が出席している。)
一、統合実施期日は十一月一日(昭和二十三年)となったので至急断行するように。
一、男女共学は教育基本法に示されており是非実行するように、早ければこの九月からでも実施するようにとのことである。(当時、男女共学については時期を見てということで各学校とも理解はしていたようだが、この日の指示は統合の鉄則で、時期も早ければ早い方が良いと急転している)
また、他の県の様子が報告され、「いずれにしても占領軍の政策に沿うための手段であるから、できるだけその主旨に沿う範囲内で自主的にやりたい。」と占領政策の一貫であるからと、暗に議論の余地がないことを明言しているし、更に「各方面の協力を得て模範的な統合をやりたい。」と結んで、意欲的な姿勢を示していることに注目したい。
森永先生の「高校統合前夜日誌抄」には、この校長会議の藤本課長の指示のあと、あわただしい動きが記されている。学校は勿論のことpta、同窓会等も相ついで会議を開き対策が練られている。7月27日にはpta常任委員会、7月28日旧長崎中学校同窓会評議員会が開かれ、7月31日にはpta幹事の高尾・中村・鈴田・楠井の四氏が陳情書を県と軍政府に提出している。その日の軍政府での話しとして
一、統合の方法は軍政府として指示もしてない。一切県にまかせている。
二、男女共学は急いでいる。遅れているのは県の怠慢である。
県側の返答は
一、統合の方法については具体策は出来ていない。八月二十日頃には目鼻がつくであろう。
二、知事(杉山知事)は、すべて担当課長(藤本課長)にまかせている。自分は何も知らない。
この時点では、統合について具体的な案は出来ていないこと、統合を実施するのは県の学務課であることが明確になっている。
8月に入ると、県教育民生部学務課の動きもあわただしくなってきた。高橋一男先生(当時長崎高校の教諭)の「新制高校統合の頃を想う」に、8月4日から一週間の予定で、当時学務課の総務課長であった近藤保氏と一緒に近畿地方の統合情況視察のため出張を命じられた。その中で、「一度統合案を進駐軍に提出したが、糊塗的な方法として大叱責をうけ、根本的やり直しを命じられた京都府の状況を調査することが最大の目的だったように記憶している。」とあるように、長崎県としては、中央からの軍政府視察で長崎軍政府が厳しい叱責を受けたのをうけ、県学務課としても早急に、しかも、遺漏のないように統合問題を解決せねばならなかったので、あわただしい動きとなった。先進地区の視察について原稿70枚余の報告書を提出した(現在報告書は不明)とあり、内容については不明であるが、恐らく、この報告書を土台として統合案が生れたと思われる。
さらに
「今もはっきり覚えて居りますことは、男女共学制・学区制・総合制の三大原則をあくまで重視し、従来のあらゆる伝統を一掃し、全く平等の高校を新設すべしとの厳命である事をどの府県からも聞かされたことでした。」
とある。勿論、報告書にも書かれたことと思われるし、「伝統を一掃し、全く平等の」という点が、軍政府の強い指示であったことが窺えるところである。ついでに、先生の思い出の中に次の文がある。
「私は当時旧制長崎中学がそのまま名称を変えた長崎高等学校に奉職して居りましたが、エリート校として県内随一を自負して居りました職員や生徒にとって、更に父兄の各位にとって、従来の伝統をすて、他校と地区的に統合される事は、何としても堪え難い苦痛でありました。」
と述べられている。高橋先生は長崎中学の卒業ではないが、当時の旧制長崎中学の関係者は皆このような思いがあったのではなかろうか。この思いが、長崎市内の高校統合が難行する一因になっているように思われる。
注目されるのは、「徹底した学区制を設ける。なまぬるい統合法を
やって再編成を命じられるようなことがあってはならない。」「統合の
実施は来春(昭和二十四年)三月まで延期してもらいたい。」「長崎市
の南部にも普通科高等学校を設ける必要がある。」等であり、これ等
をまとめて知事に提出している。
翌8月18日には「長崎市学制協議会」が開催され、松岡通訳官が「7月15日に中央から長崎軍政府視察があったが、長崎の高校統合は何ら進展していないとして、厳しく長崎軍政府が指摘され窮地に立たされている。従って八月二日に知事に対し統合を早急に実施するように伝えたところである。しかし、統合とは決してある学校とある学校を合併するようなものではない。今後の高校は学区を定めてその選択を許さぬほどのものにしなければならない。」と伝えられた。 この時点で統合のあり方が学校と学校の統合でなく、学校区を定めておこなわれねばならないとし、7月31日の軍政府が、統合については県に任せているとの言とは違って来ているし、中央の軍政府からの叱責以後、長崎軍政府の姿勢が変ったことを窺わせる会議であったといえよう。
8月27日には「高等学校統合準備委員会」が開かれ、知事の挨拶、ニブロ教官の挨拶があった。この会議は県全体のもので、改めて軍政府・知事から高校統合について促進の指導がなされた会議であった。
翌8月28日29日両日に早くも第二回の統合準備委員会が開催され、男女共学・通学区・総合制・校名・財産処分・職員人事・実施時期等について審議がなされ、原案を作成して提出した。主な内容は
一、男女共学は直ちに実施する。
二、学校区は設定するが、具体的には各地区の事情に応じて施行する。
三、総合制はなるべくおこなう。
四、統合の時期は十月一日、遅くとも十一月一日から実施する。
五、学校名は、従来の学校は解消したものとして新しい校名をつけることを原則とする。
六、教職員の配置については犠牲者を出さないこと。教職員の再配置は昭和二十四年三月実施する。その際学校差を少なくするよう人事の交流を考慮する。
森永種夫先生の記述はここで終っている。7月26日から約一カ月間の統合経過についての記録であるが、この間の動きが、長崎中学及び県内の動きなど順序よく的確に記載されている。戦後の混乱期の中で教育制度の改革が、あわただしく行われていった経過を読みとることが出来る極めて貴重な日誌抄である。
県内の高校統合方針にもとづき、長崎地区の高校統合は幾多の曲折を重ねながら進められていった。当初、本県の高校統廃合は10月1日から実施するとされていた。「長高新聞三号」(昭和二十三年九月一日発行)にも
「統合の発足は十月一日を期し共学は直に実施、新たに学校区を設け地区的に良心的に行う。原則として学校名は新しくするその他である。長崎地区東部高校は県女高に、西部は竹ノ久保に新築中で当分長高校舎を使用する。」
とある。この時点では校名も東部・西部の名が仮につけられ、10月1日発足を目標に準備が急速に進められたと考えられる。準備は学区(生徒を東西二校へ分割)、教務、人事、財産処理の四分科会に各校から委員が選出され、その上に総務委員会が置かれ、総務委員会には校長と職員代表二名をもって人員構成がなされた。長崎高校からは小谷校長・森永教頭・高橋一男の三名であった。
当時を知る資料として、「市内高等学校長『会議録』」が残されている。この会議録には昭和21年度以降の市内校長の会議での討議内容が記録してある。
昭和二十三年七月八日
一、近藤事務官ヨリ新任ノ挨拶アリ。
一、ニプロ教育官、無事到着ノ電報アリ。
近藤事務官は近藤保総務課長であり、ニプロとあるのはニブロ教育官で、両者ともこの頃に着任されたと思われる。
高校統合の原案が具体的に指示されたのは9月10日であった。
昭和二十三年九月十日 会場 県立長崎女子高等学校
参加校、長高・瓊高・水高・市商高・海星・東陵高・市女高・活水・ 鶴鳴・玉木・常清・純心・女子商・県女高の十四校、県ヨリ藤本課長・近藤事務官。
一、協議事項
高校統合ニツキ近藤事務官ヨリ内示アリ
一、併設中学ハ直チニ共学、高校ハ学力差甚ダシケレバ明年三月マデ共学ニセズトモヨロシ。
二、性別ノ差ノ学校ハ将来設置セズ
三、通学区域ヲ設ケル
四、佐世保・長崎ナド同地区ニ二校以上アル場合ハ新制中学ノ区域ニヨリ学区ヲ設ケル
五、但シ、現在在学中ノ高校生徒ハ、二校ニ分散セナイデモヨロシ
六、統合ニ際シ、ナルベク空白ヲサケル
七、校名変更ハ県立・市立統合ノ場合ハ財産処理ノスムマデ両校ノ名ヲ残ス
八、教職員配置換ハ、ナルベク最小限ノ異動二止メル
以上ノ事項ハ大体、校長会ノ申会セ事項ニ一至シタルモ、高校生徒ヲ二校ニ分散セザルモヨロシト云フ件ハ、県ノ新見解ナリ。
県から藤本課長・近藤事務官の二名の出席で統合の具体的な案を伝えられたが、9月10日の時点では、学力の差があれば男女共学は翌年の3月まで実施しなくても良い。通学区は新制中学の学区とするが、現在既に在学している生徒は二つに分散しなくても良い等、市内校長会の思わくよりゆるやかな方策を示している。
この記録に残されているように、9月10日の時点では、男女共学は学力の差が大きければ実施しなくてよい。通学区は設けるが現在在学している生徒は二校に分散しないでよろしい。この内示によれば長崎・佐世保など同地域に二校以上ある場合は新制中学校の区域により学区は設けられるが、在学している生徒は二校に分散させないでもよろしいと指示しているので、学校統合による旧制の二中学・二高女の統合を考えていたのではないか、学区制を敷くこと、男女共学制の実施は併設中学に収容する旧制中等学校の三年生(新制高校生としては四回生)からでもよいと判断していたものと考えられる。ところが、11月1日の統合実施では、男子生徒と女子生徒の学力差が心配されていながら男女共学にふみきっていること、通学区を設定し、東高と西高に在学生も配分してしまった。(但し、寄宿舎生は男子は西高へ、女子は東高へ配分している。)
校長会会議録にはその後の記述は残されていないから、統合問題の経過は市内の校長会では報告されず、四校から出ている委員会内で審議されたものであろう。
しかし、その後、事情は一変する。約20日後の10月2日付の長崎日日新聞には次のように報道されている。
「長崎市の高校統合について、長崎市学制改革協議会は二十八日に引き続き三十日も午后一時から市立女高で統合委員会を開き、最も問題とされている地区制、その他の問題を協議してようやく長崎の統合問題は軌道にのり、おそくとも本月二十日までに完成するもようである。
〔地区制〕
この問題は▽中学校区を基礎とする(但し、場合によっては小学校区を勘案する)。▽義務教育を尊重する(中学校を分離させるようなことのない様に)。▽通学距離を勘案する。
以上の三原則を基礎として次の高等学校の通学区域を決定する。
桜馬場・西山・片渕・勝山(銭座・西坂は西)・大浦の各中学校区と矢上方面、茂木方面は東高校(仮称)とする。
南大浦・東山・戸町・土井首・木鉢・渕・山里・西浦上の各中学校地区と深堀・野母方面、彼杵半島方面及び汽車通学区域は西高校(仮称)とする。但し、現在の高校生(併設中学生を含む)の配分は高等学校側に一任する。」
とある。学制改革協議会の中心は統合委員会で、改革協議会には実業高校の委員も含まれていたので改革協議会の名称がつけられた。
新聞記事にあるように、この2日の時点で仮称東高・西高の校区が中学校区を中心として、大まかに決められている。
しかし、それは新入生からのことで既に高校に通学している生徒(併設中学生を含む)については、四高校側に一任してあるから、統合委員会では併設の中学生を含めて東・西両高校に生徒を配分することになっている。この為の作業が続けられ生徒数をそろえるために、細かな作業が続けられ後述するような区分となったものと思われる。
同じ日の長崎日日新聞には次のような記事もある。
高校統合来月から実施
長崎・佐世保両市は二校建て
「新制度による男女共学の高校統合は、いよいよ十一月一日から県下一斉に実施される。長崎・佐世保を除く各地とも最初の案どうりに統合されるので問題はないが、長崎・佐世保は開校を前にして学区制問題をめぐってまだ意見が対立している。だが、いづれにしても十一月一日から両市とも新制高校に看板を替えるわけだが、長崎市は予定どうり東地区が長崎高女校舎、西地区が旧瓊浦跡の焼地に新校舎を予定して取りあえず長高に決定しているが、この区分を学区制にするか、統合制にするか意見がまとまっていない。だが、各理事者側は長崎を二分して中島川を境界線として東側が東高、西側が西高校に区別して、現在校生を直ちにこの区分により登校させようと計画している。」
この記事によれば、各理事者側の具体的名が出ていないが県の学務課のスタッフを指していると思われるが、若し、それならば9月10日の長崎市内の校長会での県側の内示が変ったと考えられる。どのような事情で変更されたのか不明であるが、約20日の間に学区制を採用し、開校と同時に男女共学の実施と市内四校の生徒を地区で分けて東・西両校に登校させるように変更されている。記事の中には地区制にするか、統合制をとるか意見がまとまっていないと言いながら、実際には地区制を採用することが決まっているような内容である。従って、長崎の統合問題は9月10日以後20日の間に何らかの理由で学校統合方式から地区制による両高校の開校へ変更されたこととなる。また、同じ紙面の中で東高・西高の名称が一方では仮称とされ、一方では仮称がとれ、東部・西部の名称は消えていることとなる。現在の長崎東・長崎西高校の名称も、この時点で定まったのではなかろうか。これ等の一連の変化はその後の長崎の高等学校教育に大きく影響してくることになるが、前述したように「何らかの理由」の内容は不明であるが、県の学務課内の意向の変化であるのか、外部からの強力な指導があったのか、指導があったとすれば軍政府からのものか、自主的に民主主義教育を確立するために伝統のしがらみを断つための英断であったのか。この方針変更は旧制長崎中学校以下四つの旧制中学・女学校(4月1日より新制高等学校に名称は変っていたが)が23年10月31日をもって終わり、全く新しい高等学校が誕生することを意味することであり、従って、各学校にあった同窓会を引き継ぐ母体がなくなったことを意味するものであった。その経過については、新たな史料が発見されなければ知るよしもない。
新制高等学校への移行準備は各県ともそれぞれの道を探ったが、文部省は「新制高等学校実施の手引」を都道府県知事に昭和22年12月27日に出している。文部省からの通達の概略は次のようなものであった。
一、総合制については大都市には色々な学科をもつ学校があるので支障はないが、学校数の少ない地方では総合的な学校となることが望ましい。と地方の高等学校では普通科以外の教科を希望する生徒がいるから、彼等の希望を充たすために総合的な学校となることが望ましいとある。
二、男女共学について 「新制高等学校においては必ずしも男女共学でなくてよいが、新制高等学校の教育を受け得る機会は男子にも女子にも同じように与えられるべきであり、その教育内容も全く同じ水準でなければならない。――中略――現在旧制の中学校と高等女学校が同じ地域にある地方で、それらの学校が新制高等学校になるときに、もしその地方の人々が希望するならば、これまで通り、男女を別々の学校に収容して教育することは差支えないが、その場合にも男女に対する教育の機会を均等にするために、教科内容と設備と教員とはいずれも同じ水準のものでなければならないのはいうまでもない。」
とあり、男女共学に対しても柔軟な姿勢を指示されている。
公立の場合は、地方教育委員会ができるまでは、各地方の新学校制度実施準備協議会(昭和22年2月17日発学63号)の研究審議にもとづき都道府県教育行政当局が決定する。とある。要するに「地方の実情に即し、新学制が正常で均整のとれた発展を遂げるように措置され、学校当事者だけの都合で決定することをさけ、慎重に措置されたいとなっている。
県教育委員会の発足は昭和23年11月1日であるから、東・西両高校の開校と同時である。従って、高等学校統合については、県教育民生部学務課が担当、指導したのである。
当時(昭和23年10月頃)の学務課の記録は残されていないので、高等学校関係のスタッフは知ることが出来ないが、校長会会議録等の資料から見ると、課長は藤本藤治郎氏であった。高等学校関係に近藤保氏(のち総務課長)重藤市之丞氏(後ち修猶館高校長)軍政府の教育担当はニブロ教育官であり、通訳は松岡氏であったことが記されている。ニブロ氏の横顔については色々な評があり、十分な理解が得られないが、ある面では厳しい指導があったように伝えられている。しかし、最終的な原案は学務課で作成され、知事の決裁で実施されているから、学務課の姿勢が東西両高校の開校の重要な鍵を握ったのではないかと推測されるのである。
さて、新しい方針が決定されたあと、統合される四つの高校から選出された委員は、教務・人事・学区・財産の四つの委員会に分かれて委員会ごとに新制高等学校の開校にむけ準備をされた。この四つの委員会で最も苦心されたのは人事委員会と学区委員会であったといわれている。人事委員会は四校の教員を東西両高校、併設中学への配分の原案作成であった。当時、浦上地区は焼土と化し、校舎も焼失しており、住む家さえもない状況であったため、西高を希望される人は殆ど無かったので配分案作成には苦労があった。また、学区の線引きも困難があった。四つの学校の生徒を二分するにあたり、一応は中学校区を規準とすることになったが、在学している生徒を二分するには生徒の現住所をもとにおこなわれた。中島川にそって東と西に分けられ、南は推の木川を境にすれば東西の生徒数がほゞ二分されることになったようである。最終的に中島川を境としたが、細かくは馬町から諏訪神社の石段を登り、日銀長崎支店の方から来る炉粕町の通りを西山の方へ右折し、旧長崎東高裏を通る道を境に東・西に分けられた。この地区の線引きについては併設中学の生徒も含めての地区分けであった。但し、寄宿舎生については長崎高校の寄宿舎生は全員が西高へ、県立女子高の寄宿舎生は全員東高への配属が了承されている。この間の事情について大町正三先生(第五代長崎東校長)は次のように言っておられる。
「職員も生徒も竹ノ久保は焼野原の中の西高より東高にとどまりたいと思ったのは人情として仕方のないことです。それ故に職員・生徒の分割は難しい仕事でした。これを書きますと切りがありませんので、大まかに言って中島川を境にして左岸、右岸で生徒を分けたように覚えています。何しろ長中が最も多人員ですから、長崎高校が決まらぬと全体が決まらなかったのです。しかも、東西同人数にしなければならず、地図の上に定規をあてて引くようなわけにはいかず、とても困ったことを記憶しています。」
「教員もそれぞれの学校で東西に分けるのには難儀したようです。長 中(長崎高校)は幹事会で申し合わせ、「東西どちらともきずにとにもかくにも二つに分けようと、学科別、年令別、俸給別その他あらゆる要素をあげて二等分にして、それぞれ名簿をつくり封筒に入れ小谷校長に差し出し、どちらが東になっても西になっても文句は言わないと皆で約束しました。他の三校の内部事情はそれぞれあったようですが推測してもせんないことです。」
とあります。これによれば、長崎四高校の東西二校への統合分割の作業は、長崎高校がその中心であったことが窺える。
参考までに当時の長崎高校のスタッフは、校長小谷巨三郎・教頭森永種夫・教務主任高橋一男・文化主任俵重秋・訓育主任大町正三(重藤氏が県学務課へ転出のあと)・体育主任清水、購買部湯原氏等であった。
昭和23年11月1日をもって長崎の東西両高校が新しい高等学校として出発した。長崎の統合分離の経過については既に述べてきたように、男・女二校ずつの四つの高等学校を東西二校に普通科・男女共学・校区制を敷いて発足させる事についての決定は、県民生部学務課によって具体案が作成され、細かな作業は四校から出た委員により進められた。事務的作業は長崎高等学校の委員主導でおこなわれたと思われる。人事配分・財産配分・教務関係(学籍簿等の問題)は特に注意がはらわれた。慎重な作業が進められた様子は大町正三先生の手記によれば、長崎高校の教員については公平な処理がおこなわれたことを窺い知ることが出来る。他の高校の人事については若干事情があったようにも伝わってきている。
しかし、いずれにしても各高校から選出された委員の手によって、各高校の先生方の殆どは東高・西高・併設中学へ配属されることになった。このなかで、併設中学への転出が決まった先生方の一年後の身分は保証されていたとは言え、実際には不安があったであろうことは疑いえなかった。
さて、昭和23年11月1日開校時の長崎西高校のスタッフは同窓会名簿(昭和60年)によれば下記のようであった。(教諭のみ)
役職・教科 | 名前 | 前勤務校 | 役職・教科 | 名前 | 前勤務校 |
---|---|---|---|---|---|
校 長 | 小谷巨三郎 | 長 高 | 理科(高島) | 時任 二郎 | 瓊 浦 |
教 頭 | 工藤常太郎 | 瓊 浦 | 〃 | 本村 近 | 長 高 |
〃 | 島田 清春 | ○長 高 | |||
国 語 | 鬼塚 正之 | 市高女 | 〃 | 林田 光晴 | 長 高 |
〃 | 木下 恭平 | 長 高 | 〃 | 前島 徳吉 | ○県高女 |
〃 | 浦川 国明 | 県女高 | 〃(高島) | 平田(幸)長生 | 瓊 浦 |
〃 | 長田 重男 | 11月1日付県教委 | 〃 | 池田 保彦 | 市女高 |
〃 | 高橋 一男 | 長 高 | 英 | 早水 文雄 | 瓊 浦 |
〃 | 塚原 末子 | ○県女高 | 〃 | 高田 正子 | |
〃 | 丹羽 徹雄 | 長 高 | 〃 | 中尾 大典 | ○長 高 |
〃(高島) | 本田 一夫 | 瓊 浦 | 〃 | 東 保憲 | 長 高 |
国 語 | 横山 稔 | ○ | 〃 | 湯原 進 | 長 高 |
〃 | 植木 義彦 | 瓊 浦 | 保 体 | 清水 道治 | 長 高 |
〃 | 桜井 定夫 | 市高女 | 〃 | 早田 茂 | |
〃 | 俵 重秋 | 11月1日付県教委 | 〃 | 大平 兼男 | ○瓊 浦 |
数 学 | 城下 重義 | 長 高 | 〃 | 小川 正章 | ○ |
〃 | 田島 ミサ | ○ | 〃 | 村川 亘 | |
〃 | 伊(伊集院)光雄 | 市女高 | 家 庭 | 有田 敏子 | 県女高 |
〃(高島) | 嘉数 武松 | 瓊 浦 | 〃 | 岡田 敏子 | 県女高 |
数 学 | 柴原 邦安 | ○瓊浦 | 〃 | 上野 ツネ | |
〃 | 土岐 晃 | 長 高 | 〃 | 佐藤タツ子 | 市高女 |
〃 | 蜂 八十八 | 県女高 | 〃 | 池田(林田)敏枝 | 市高女 |
〃 | 横山 源蔵 | 瓊 浦 | 芸 術 | 原格太郎(音) | 瓊 浦 |
社 会 | 北村 保男 | 〃 | 堤 温(音) | ||
〃 | 奥村 孝亮 | 長 高 | 〃 | 嘉瀬克己(美) | 長 高 |
〃 | 中島 繁雑 | 瓊 浦 | 〃 | 川口 直(書) | 瓊 浦 |
〃 | 永野 文雄 | ○県女高 | 〃 | 川頭輝子(音) | |
〃 | 山部 淳 | ○長高 | |||
〃 | 川上 理郎 | 市高女 |
この職員一覧表は必ずしも正確なものではない。「西高三十年史」にも同じような職員一覧表が掲載されているが、国語の植木義彦・桜井定夫・俵重秋、社会の山部淳、数学の伊(伊集院)光雄の先生についてはっきりしない点がある。この中で俵重秋先生は「ひがし四十年」にも開校時の教職員として掲載されている。
(※俵先生は昭和23年11月1日付で県教委の指導主事に発令されている。24年長崎西教諭とあるのは宛指導主事として籍を長崎西高校に置かれていたからであると思われる。)
開校半年後の24年4月になると、併設中学からの先生方の受け入れ等もあって、大幅な変動があった。教務課長として板橋勉先生が猶興館から赴任され、工藤常太郎教頭は庶務課長へまわられ、高橋一男(国)先生は四校統合では中心的存在であったが、新制中学の設立により中学の方へ栄転された。城下重義(数)先生は24年度まで長崎西高の教務主任で、その後中学に栄転された。私が昭和24年4月に赴任した時点では、名簿上では開校当時の先生方一覧表の中から19名の方が転出又は退職をされている。わずか半年の期間にである。勿論19名の中には併設中学に所属されていた方もあるが、発足間もない学校で約20名の異動がなされねばならなかった事情を考えると、この時代は教育界にとって将に激動の時代であったことが知れる。
さて、私が新卒として長崎西高校へ赴任した始業式で、新任として紹介されたのは約10名であったと記憶している。新学期がはじまり、授業についての心構えを先輩が指導された中に、西高の教育は「旧制の高等学校を継承する気持で授業をおこなって欲しい。」との言葉があったように思う。当時は教科書もなかったので、何を基準として授業をしたらいいのかもわからず、五里霧中での手探り状態であった。経験のない旧制高等学校の授業がどの程度のものであるのか理解せぬまゝの授業で、かなり乱暴なものであった。それでも永野先生、奥村先生方の話を聞きながら危ない授業をしたものである。
「旧制高等学校のレベル」とはどこから来たものであろうか、それは昭和23年4月の教育刷新委員会の建議に「新制高等学校の程度は、およそ『高等専門学校の程度を基準とすること』とし、教員の資格についても、旧制の『高等専門学校の教員資格を有する者を原則とすること』が記されている。また、制定当初の『学校教育法』には、全日制の課程の修業年限は三年とされていたが、ただし、『特別の技能教育を施す場合』には『三年をこえるもの』を認めていた。」(以上学制百年史)
「旧制高等学校のレベル」とはどこから来たものであろうか、それは昭和23年4月の教育刷新委員会の建議に「新制高等学校の程度は、およそ『高等専門学校の程度を基準とすること』とし、教員の資格についても、旧制の『高等専門学校の教員資格を有する者を原則とすること』が記されている。また、制定当初の『学校教育法』には、全日制の課程の修業年限は三年とされていたが、ただし、『特別の技能教育を施す場合』には『三年をこえるもの』を認めていた。」(以上学制百年史)
また、戦後まもない20年9月15日に発表された「新日本建設の教育方針」を見ると、敗戦後の青少年の教育について、国は青少年の教育によって国の再建を計っていきたいとの思いが教育方針に表現されている。もっとも占領軍による占領教育政策の具体的な方針や指示が示される以前のことではある。しかし地方の長崎においてはこの教育立国の精神は残されていたように思われる。
先輩の先生方の「旧制高等学校の教育レベル」という言葉が私ども新任にとって強い衝撃となったことは事実であり、県下第一の伝統をもっていた旧制長崎中学を継承する東西高等学校は、誇り高い学校でなければならないと感じていた。
この「旧制高等学校の教育レベル」については、『昭和23年の「高等学校設置基準」も旧制の高等専門学校の程度を目標としたいわゆる「恒久基準」と旧制中学校を無理なく移行させるための「暫定基準」の二本立てとし、昭和26年3月31日までは「暫定基準」によるものとされていた。しかし、実態としては、旧制の中学校がほとんどそのまま移行して新制高等学校が成立し、その教育水準もそれに即して実質的に変化し定着した。』(学制百年史)とあるが、長崎西高教師の間では「恒久基準」の方を向いていたのではあるまいか。
旧制長崎中学を実質的に継承する学校としての長崎東・長崎西両高校の教職員スタッフが旧制の高等専門学校のレベルを継承しようとしたことは、行政機関・軍政府の思わくとは別に、当然のこととして自覚し継承されたものであった。特に長崎西高校においては、旧長崎中学校の小谷巨三郎校長がそのまゝ校長となり、瓊浦中学の工藤常太郎教頭が教頭に、高橋一男教務主任が教務主任として学校運営の中心にあった。その他、教職員の中核をなした旧長崎中学・瓊浦中学からの教職員の多くは旧制高等学校から帝国大学で学んだ方が多かったので、日本再建のための人材育成には旧制高等学校教育の精神は当然生かしていかねばならないという使命感があったように思われる。当時、知識人の中で読まれた書物にフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」がベストセラーとなったことと併せ考える時、心ある教職員は若者の育成に情熱を傾けたのである。
西高創成期には統合問題で教職員の配分が教員定数をオーバーしていたためか、人事異動が激しかったことは前述したとおりである。
我が国の敗戦はこれまでの国民の精神的支柱となっていた国体意識を失わせ、指導者層も大衆も自信を喪失し、あらゆることに戸惑いをみせていた時代であった。教育界においても混迷は大きかった。この中での新制高等学校の船出は羅針盤を欠くようなものであったかも知れない。県内にあって長崎の東・西両校の動向は注目されるところであったが、そのリーダーとして舵をとられたのは小谷巨三郎校長であったといえよう。東京帝国大学文学部倫理学に学ばれた深い学識と旧制高校時代の文学・思想の蓄積は、広い視野をもって教職員の指導をされたように見えた。運営委員会・職員会議での校長の発言は多くはなかったが、職員の意見にも耳を傾けながらも偏ることなく、職員には自由に議論を戦わせながら教育の方向を定められたように見えた。西高三十年史にも述べているが、私の記憶するところによると、若い先生方を含め、職員会議・運営委員会で可成り不躾な発言も耳にしたようであったが、叱られることもなく議論が続けられた。特に生徒の指導については、高校生としてどうかと言う前に、人間としてどうあるべきかという原点から討議がなされ、時には先生方の個人としての人世観が問われる場面も議論の中で聞かされ、大きな感銘を受けたものである。従って、生徒指導の職員会議は学校の規則に違反しているか否かでなく、人間の原点、教育の基本から出発するので、夜おそくまで続くことが多々にあったことが思い出されるのである。
また、教職員の人事面においても、小谷校長の人脈といえようか、教頭の板橋勉先生をはじめ、転退職者の後任には学職ある先生方が西高教諭として来校されている。その多くは旧制高校の生活を体験され、帝国大学で研鑽を積まれており、それぞれが個性的であったが、学問に対する真摯な態度や識見の若手の教師や生徒に対する影響には大きなものがあったと思われる。
西高には開校時から校訓といわれるものはなかった。現在では「自律」が西高の校訓となっているが、これは初代校長の小谷先生の教育理念であり、校長を中心とした教職員の教育に対する識見の高さであり、それが次第に校訓的なものに成長してきたものと考えられる。また、昭和26年に制定された校歌「眉秀でたる若人よ」の歌詞の「自律の園を守らずや」は、小谷校長の学校運営に対する理想であったから、その意志が伝えられたもので、格調高い歌詞は「曲」と共に愛唱され、その後の西高教育の中心をなしてきたことは卒業生も感じていることであろう。
自律とは「自分で自分の行為を規制すること、外部からの制御から脱して、自分の立てた規範に従って行動すること。」とある。哲学的にはカントの倫理思想の中で根本をなしている観念である。自分の理性によって築いた理念や道徳倫理をもって、俗悪な外的権威に拘束されることなく、また、自分の行動も自らの力で拘束出来る強靭な人間を要求していく崇高な理念でなければならない。この自ら自分を律することを教育の根底に据えたのが西高建学の精神であったのである。
創草期の西高の職員室は自由な空気があったし、アカデミックであっ た。「西高三十年史」に寄稿されている森一郎先生の「自由にたてる創造という旧制高校的観念が、何と高貴に古典的に見えることだろう。」の言葉どおりの高貴がそこにあった。教職員の間でも種々の社会問題や教育問題について討議がなされたり、有志によって同人雑誌が発行され、自分の意見・創作を発表されていた。社会科では奥村孝亮先生を中心に「西日本史学会」に入会し、研究発表や機関誌「西日本史学」に投稿し研究を深めていった。このような学問への情熱は若手の教師に大きな刺激を与え、教師としての道を教えられることになった。これらの様子は敏感な生徒にも伝わり、「西高三十年史」の卒業生の寄稿に多く見られるところです。一回生の山脇敏宏氏は奥村先生の授業について、本物の学問とは何かを伝えようとされた驚きを「学徒が真理を慕うこと、鹿の渓水を慕うが如きものありや。」と表現されているし、同じく一回生の中山淳氏も林田光晴先生の授業で、ケプラーの法則がニュートンの万有引力の単純な式から微分方程式を解けば導かれることを黒板に一気に示されたことに驚きと学問の深さや宇宙の神秘性を感じ、それ以後その道を歩き続けているとのこと、二回生の水田宝久氏は生徒会の思い出として、第一回の体育祭を企画案から実施まで一切生徒の手でおこなったことを回想されている。また、修学旅行についても、小谷校長が「修学族行は子供っぽい。テーマを持った研究旅行ならばと言って許可されなかった。」と。掘(角尾)愛子(四回生)さんも小谷校長の「永遠の女性と精神生活の確立」という講話に、ダンテの神曲に登場するベアトリーチェを引用され新しい女性の進む姿を示された。そして「勉強でもピアノでも兎に角、何かに打ちこんでごらんなさい。そしたら精神生活が確立できますよ。」の言葉に自分の生き方に活を入れられた思いであると述べられている。まだ多くの卒業生からの寄稿が寄せられているが、当時の西高教育が何を目指しているのか良く理解されるところである。校章も制帽も制服も校歌もない頃であるが、これ等よりも、もっと先にやっておくべき大事なことがあるとの信念がそこにあったと言えば言いすぎであろうか。ここにあげた例は、ほんの一部にすぎないが「西高三十年史」には沢山の歴史が寄せられている。
戦後の混乱期に人々をまどわせたものに、自由主義の思想と社会主義的思想が一面で混同された風潮によって、勝手気まま自己主張と安易な発言がまかり通り、それが許されるかの状態があった。西高の初期の自治会においても例外であり得なかったようであるが、「マルクスをふりかざして迫る自治委員に対し、羽矢先生は「マルクスが何といおうとですね。」と軽くいなされ、先鋭なる我らが代表も歯がたたず引きさがった。――中略――考え方がどのように違おうと、生徒が正面から先生方の胸にぶつかって行けたということは幸せであった。」(一回生山脇敏宏氏)の回想にあるように、一人羽矢先生のみならず、それぞれの立場で個性的に毅然と対応される先生が多かったことは、西高の校風形成に大きく影響したと思われる。
しかし、この個性的な教育集団は、その後、思わぬ障壁につきあたることとなった。一つは新制高校の教育目標が旧制高校・専門学校の教育レベルから一般国民教育を目指すという方向へ変ったことであった。教育の機会均等により高等学校が各地に設立され、高校への進学率が経済の進展により急速に上昇した。二つには戦後の経済復興が特需景気にささえられ順調に進展し、国民生活は豊かさを取りもどし、駅弁大学と称されたように地方の大学が整備拡張されるにともない大学進学の志向が高まってきた。従って、高校教育は大学への進学指導を学校教育の中心に据える方向へと変っていった。この体勢のなか依然として真の高き理想をもって教育の道を歩み続けたのは西高教育であったように思う。三つ目は、東・西両高校の発足した昭和23年11月1日をもって誕生した県教育委員会はそのものが未成熟であり、さらに新しい教育制度の対応に追われており、十分な指導が出来ないまま数年が経過している。その間、西高教育は独自の歩みを続けており、文部省が新たに示した学習指導要領は目安程度のものとして参考にしたに過ぎなかった。ふりかえって見ると、ここに県教育委員会の思わくとは必ずしも一致しない方向に進んでいたように思われた。
それから五十年の歳月を経た。学校の歴史として五十年は長い方ではないが、長崎西高という校風が築かれてきた。校風は教職員と生徒の集団の相互作用で生み出されるものであるが、それは小さいながらも一つの文化の誕生でもあった。文化は学習したからといって同じものを作れるものではない。知識は伝えることが出来るが、そのものをそのものたらしめているコア(核)は自ら創造されていくものである。そして「コア」なるものの形成は比較的早い時期に誕生し、一旦、誕生した核は、時間が経過しても消滅しにくいものであることは歴史が証明しているところである。時代は推移している。嘗て、大学進学に狂奔した偏差値教育は去り、真の人間形成が目指されるようになってきている。再び、西高教育の「自律」が光を放つ時が釆たように思われる。これまで教師集団の方から西高教育の姿を描いてきたが、生徒集団からの自律への例も多くあった。この点については、同窓会誌の「ふれんどり」に座談会記事として掲載されることになったので、ここでは割愛させていただくことにした。
西高校の更なる進展を祈念しています。
(元長崎西高教諭 昭和24年4月~36年3月)
1998年11月1日発行「長崎西高50年史」より