…「検証」とは、主題に対して入手できる範囲のあらゆる資料を取りそろえて、「さぁ、これが決定版です」という種類のものかもしれない。その点では、この検証ノートはほど遠いものである。東高で育んだ自由と自主、「梅はうめ」に啓発された自我独立の気風は、今も私の青春魂のもとであり、色あせることはない。この未完の検証ノートを、今は亡き恩師ならびにご老体にもかかわらず多くの資料等をお寄せいただいた恩師に捧げ、いつの日か「完成」を誓うものである。在京後輩たちの応援を得て、その会報「東風」18、19号に、当時の在校生による「東高創立50周年記念座談特別座談会」を掲載させてもらったが、本報はそれに続くものである…
長崎東高検証ノートは、矢張り梅田倫平校長の「梅はうめ、桜はさくら」から始めなければならない。梅田校長には、昭和24年4月1日、発足2年目の長崎東高第2代校長として着任され、その後、7年間校長を務められた。
後年、昭和54年4月19日に81歳の生涯をとじられたあと、ご子息の昭郎氏が弟の和郎氏(長崎東高第9、11代校長)とともに、梅田校長の遺稿集を発刊されておられるが、その題目も「梅はうめ」である。その前書きに昭郎氏は、「少し酒がはいり、機嫌がよいときにはいつもこの話を聞かされたくらい、父のたいへん好きな言葉であった」と述べられておられる。
「ひがし四十年」に掲載されている梅田校長のお写真は非常に若々しい。着任当時、いまの年でいえば、満50歳に当たられる(明治30年9月5日生まれ)。
私の梅田校長の思い出には、授業中に校長室に呼ばれた2回の経験が貴重である。1回目は、長崎県高校新聞連盟が主催した県下高校演劇コンクールの切符に関して税務署の方が見えておられた。入場券に税金がかからないよう、1年有効の会員券なるものを発行したことで事情を聞かれた。2回目は、警察の方が見えておられた。学校にはつねに大量の忘れ物、落とし物がある。弁当箱、万年筆、傘などであるが、生徒会主催で、中庭で公開せりをやって処分した。これが東高新聞の記事となり、警察の目にとまるところになったのである。学校は公共の建物であり、ここでの遺失物、落とし物は、1年と14日を経過した後、責任者つまり校長先生が警察の許可を得て初めて処分できるというのであった。従って、多分、このとき、梅田校長には監督不行届として警察から何らかの注意があったに違いないのだが、生徒会には何の沙汰もなかった。どちらの場合も、来訪者と私の会話をじっと聞いていてくださったのが印象に残っている。
教育者としての厳格さと、生徒の自主性を重んじられる忍耐強さの両面を持ち合わせておられた。「梅はうめ」をお話しされた梅田校長の心境を先ほどの遺稿集から抜粋させていただく。(以下原文のまま、途中省略があります)
「長崎東高等学校の思い出」
(三)新任式
森永教頭の云う通りに従って、先ず新任式にのぞんだのだが、式場は騒がしく案外に思った。新任式の時は、ここが大事なところと考えて、静かになるまで会場をにらみつけていた。大中(その前に校長をしておられた旧制大村中学)同様やはり一言もものいう生徒もいなくなってから、徐ろに極く簡単に挨拶をした。後での話に前任校長さんと比較して、内心感心していたという話だった。果たしてどうであったか。いわゆる訓辞の要旨は、東高の校風の建設ということが第一なので、いわば東高の歴史をつくるという誇りをもって生活して貰いたい。また、諸君は、個性があるその長所に向かって、自己の修練成長をはかること、つまり自分の道を歩くことである。桜はさくら梅はうめなんだ。その自覚に立って自己形成に努力してほしい。
(五)梅はうめ桜はさくら
己れの個性を生かせは、私の信条であった。花は紅、柳は緑というのと同じであるが、梅と桜を使いたかった。カントの信条である。人間一人一人はそれぞれ特有のいわゆる唯一無二の人格であって、何人もその代わりをすることは不可能なことで、そこに尊い人格価値があり存在の意義があるということである。梅はうめとして、桜 はさくらとして現在に特有の意義と価値がある。ひいては、万物皆然りというべきである。(中略)
(六)東高には伝統があり、校風があるという人がある
即ち自由の気風であるという。私は大村から、やって来て、生徒の気風に大らかさと自由があり、のびのびとした中に自主性も見えた。然かも静かな気力もあり上品さも、プライドもほのかに見えた。私は、茲に着目したというのか。意識的に訓話の中でこれを讃え、且つ気合いをかけて、気力、意志力、耐久力、責任感の涵養に意を用い更に行事中にオクンチ運動会をむしろ奨励し、全校マラソンのの早期復活、雪中行軍を交えた。いろんな比較もあったが、校風の助成につとめたつもりだった。梅とさくらの訓話は徹頭徹尾続けた。そう変わった教育上の考えもあるものではない。何か一つ強い印象を与えるものが必要と思ったからだ。
先へ進む前に、なぜ今、検証ノートなのかに触れておかなければならない。
私は東高3回卒業生である。ということは、昭和20年の終戦の年に旧制長崎中学に入学し、昭和23年四月、学制改革により新発足した新制長崎高等学校を経て、同年11月1日、新設の長崎東高等学校1年に編入した。終戦から戦後の慌ただしい時期を中学、高校と経験し、その学生時代を生徒会および新聞部を通じて、ある場合はその渦中で、ある場合は比較的客観的に事態をみつめて、その時代を過ごしたように思う。
発足当時の検証を思い立った動機は何か。
仕事に忙殺されていて母校の動静から遠ざかっていた長い時期の後で、ようやく創立50周年の記念行事が話題になりかけていた頃に、たまたま長崎で発足した新聞部のob会に出席し、当時を振り返る機会を得たこと。また、東西両高発足の時期に、県立女子高校を経て長崎西高教員となった母(有田敏子)の蔵書の中から、「ひがし四十年」を見つけたときに、その思いが芽生えた。
「ひがし四十年…長崎市内新制高等学校の統廃合の経過」の頁には長高新聞(3号…昭和23年9月1日付)の一面トップ見出しが紹介されている。
畏友田中道雄氏(佐賀大学名誉教授)の記事である。長崎日日新聞が本件を記事にしたのが同年9月19日であるから、何故か高校新聞の方が、今流にいえば、スクープしたことになる。「経過」の中に紹介されていることを時系列で追えば、次のようになる。
この間の経過を長崎日日新聞は、それぞれ9月19日、10月2日、10月31日付で下記のように報じている。以下、「ひがし四十年」からの引用である。
「(昭和23年9月19日)長崎市内の統合は7校を4校へ、即ち、長高・瓊浦・県女・市女の4校を2校として長高・県女の校舎を使用、市商、長工を実業科(商業・工業)1校とし、長水高を実業科(水産)とすることが了解された」
「(昭和23年10月2日)長崎・佐世保は開校を前に、学区制問題をめぐって、まだ意見が対立している。だが、いずれにしても11月1日から両市とも新制高校に看板を替えるわけだが、長崎市は予定通り東地区は県立高女校舎、西地区が瓊浦後の焼地に新校舎を予定して、取りあえず長高に決定しているが、この区分を学区制にするか統合性にするか意見がまとまっていない。だが理事者側は、長崎を二分して中島川を境界線として東側が東高、西側が西高に区別して、在校生を直ちにこの区分により登校させようと計画している」
「(昭和23年10月31日)高校生の男女共学、教育統合性ならびに学区制による教育の機会均等を図る39の県統合案が成案されたのが、去る9月18日。以来各学校で、それに則り連日ptaその他、学校関係者と協議。高校統合準備委員会を設けるなど、 高校側の積極的促進運動で着々整備され、もっとも問題をされた学区制、生徒配分も支障なく終わった。1日発足を予定されている学校は佐世保をのぞく長崎四校、諫早2校、島原1校、大村1校、五島1校、対馬1校、平戸2校、壱岐1校、口加、川棚、西彼の計16校で、佐世保3校は市との財産処分がまだ完了せず、多少遅れるもよう」この間、教育関係の指導は前述のニブロ教育官であった。勧告・助言という表現であったが、「占領軍の命令」として関係者は受け止めていた。当時、東京裁判が結審をむかえており、昭和23年11月13日には「東條ら7名絞首刑が宣せられる」と、新聞に報じられている。このような占領下において教育改革が進められたので、相当の困難があっても実現できたのであろう。
以上に対して、単純に起こった疑問は下記のような点であった。
一学校統合についての指示は「誰から」であったか?
一すべては「占領軍の命令」として受け止められる情勢にあったとしても、当時の各校の同窓会、pta、生徒たちはどのように反応したのであろうか。
一とくに、伝統という点では日本最古の中学との歴史を持つ長崎中学ではどうであったか。同じ九州他県の例では、福岡の修猷館、熊本の済々覺などが今もなお学籍簿を継承し、その伝統を維持しているときに、長崎ではどうしてそれを守り得なかったのだろうか。
一統合問題が俎上にのせられ結論を得るまでのひと月間の二転三転の動きはどうであったか。もっともっと、せっぱ詰まったあわただしさではなかったか。
これらについては、当時の長高新聞(昭和23年9月1日付第3号で廃刊)も東高新聞(昭和23年11月31日創刊)もひとことも触れていない。この疑問を何とか検証しておきたい、50周年を迎えた今、われわれがそれを残しておかなければもうそのチャンスはなくなる。これが当時の新聞部部員のひとりとして、やり残した仕事ではないかと、駆り立てるものがあった。
昨年、在京東高同窓会の幹事の皆さんにお願いして、その会報である「東風」18、19号に、当時の在校生による「東高創立50周年記念特別座談会」を掲載させてもらったのも、その思いからであった。
その手がかりにと、「ひがし四十年」に引用されている、当時、長崎高校教頭の森永種夫先生が残された「高校統合前夜日誌抄」(校長協会会誌2号)から始めることにした。東高前平田校長および40周年当時長崎県教育長であられた伊藤昭六氏に特別にお願いして、入手していただいたものである。余談ではあるが、伊藤昭六氏は、統合当時、佐世保北高の演劇部に在籍しておられ、たまたま東高新聞部の同校演劇部訪問の際の写真に同席して写っていることが分かり、これもなにかの奇遇であった。
森永種夫先生は、統合時の教頭先生である。また、長崎県公立高等学校統合準備委員会には、長崎高校から公立高校教員代表として参加され、当時の経過をもっともご存じだった方でもある。
日誌抄の前に、長崎東高新聞の創刊号にお寄せいただいた次の一文をご紹介したい。梅田校長ご着任の前に、すでにこのようなお考えで、われわれよりはむしろ当時の教職員を指導されていたのではないかと思われる。梅田校長の東高着任時の印象に、生徒の気風に大らかさと自由があり、のびのびとした中に自主性も見えたと述べられておられるが、森永先生のこうしたお考えもたぶんに影響があったと思われる。
(前略)美しい学園を築き得ない者が、どうして美しい日本を築き得ようか。東高校 建設の礎石を置く諸君に、次の故人の句をはなむけにしたい。 人生の大いなる危機においては人は常にまず敢行しなければならぬ。そうすればおのずから力が生じ、最後にはそれが正当であったという見解が生じる。
一一さあ、元気よく飛びこめ、あまり深くはあるまい一一ヒルティ。
日記抄に戻らせていただく。
冒頭に、昭和43年11月は、県下各地の高校では創立記念の催しが行われた学校が多いようであると、書かれていることから、これがその直後に書かれたものであることが分かる。統合の記録を集大成して残そうではないかという森永先生のご提案が沙汰やみになり、残念でならないと述べておられるが、森永先生の無念さがひしひしと伝わってくる文章である。引用させていただく。
六三三制という画期的な学制改革がどうして実施されるようになったのか、実施されるにあたってどんな支障や混乱があったのか、それが軌道に乗るまでの経過がどんな風であったのか等の問題については、それぞれの地区にまたそれぞれの学校に、それを物語る資料があるはずだから、それを丹念に蒐集し整理し、冷静に客観的にまとめあげたら、りっぱな戦後の本県教育史の一編になるのではないか。しかし、こうした仕事は個人の力では到底できるわざではない。幸い私は教育研究所に勤めるようになったから、これを同所の事業の一つとして取りあげたらと思って、計画の実施を要求したが非力の致すところで採用されず、そのまま沙汰やみになったことを今でも残念に思っている。(中略)
そのころ、私自身は県立長崎高校の教頭を務めており、統合にあたってもその立場でものをいっていることを了承していただきたい。
さすがに「統合前夜」と名付けられただけあって、内容は、昭和23年7月26日、朝からの職員会議の内容、午後からちょうど上京中の小谷校長の代理として出席された校長会議の模様に始まり、同年8月29日に提出された前記統合準備委員会の答申で終わっている。
これによって、「ひがし四十年」の経過の中ではさらりと記されている7月末から8月末までのわずかひと月の慌ただしい動きが臨場感をもって再現されるのである。
「ひがし四十年」でのいくつかの疑問に対する新しい発見がある。日誌抄のその部分を抄録・引用しながら、疑問点を解明してみる。
◆長崎県では、高校統合はどんな形で、誰から指示されたのか。
(一)7月26日午前、緊急招集された長崎高校職員会議
近く長崎県でも高校統合が実施されることになり、本日午後、県立高女で校長会議開催との通知があった。職員会議はその前に職員一同の意向をまとめておくために開かれたものである。席上、下記のことが披露された。
7月17日、アメリカ軍政府のキャラハン中尉が藤本学務課長同伴で対馬に行って、始めて統合についての話をした。それによると、男女共学による統合案を8月5日までに提出すること。県下の全高校も近いうちに実施するが、対馬地区としては、女子高校は男子高校に合併し、併設中学は女子高校に移し、女子高校の残りの教室は新制中学に渡す。
このときの職員会議の集約意見…長崎市内の4つの高校を統合する場合には、長崎高校(旧長崎中学)と長崎高女(旧長崎県女)とを統合して校舎は長崎高女のものを使用し、瓊浦高校(旧瓊浦中学)と市立高女とを統合して校舎は市立高女のものを使用する。併設中学と女子専門学校とは全部鳴滝の長崎高校の校舎に入るのがよいだろう。(二)7月26日午後、校長会議の席上、藤本学務課長の要旨説明
男女共学については、県当局としては、新制中学第1回卒業生が出る来年3月からを考えていた。一度は軍政府もそれを認めていた。しかし、今回受けた「指示」によれば、時期は教育委員会が発足する11月1日とすること。男女共学は統合の第一条件であること。統合問題は財政上からも考えなければならない。一部の例外はあるが、全般的には地方の女子高校はほとんど成立しない。毎月退学者続出の現状で、職員は過剰し、教室はがらあきである。一方、新制中学は義務教育であるのに教室不足は深刻である。それが統合によって救われる。
同時に学区制のことも考えなければならない。
いずれしても占領軍の政策に沿うための手段であるから、できるだけその主旨に添う範囲内で自主的にやりたい。九州地方では宮崎県の男女共学の統合が好成績として第一軍団に報告されている。兵庫県もその線で進められている。5月末現在で、すでに男女共学の統合校90で更に増加しつつある。各方面の協力を得て長崎県としても模範的な統合をやりたい。(三)8月27日、高等学校統合準備委員会(第1回)、席上、ニブロ教育官挨拶
帰米後数か月ぶりで諸氏に会えて嬉しい。アメリカの諺に「あるものは歴史を読み、あるものは歴史を作る」というのがある。この委員会はその歴史を作りつつあるものである。この計画が、子供たちの最大多数の最大幸福という観点から立てられるよう望んでやまない。(新発足した六三三制に則り)新制中学に進む生徒の自然増加数はまことに夥しいにもかかわらず、各市町村の財政状態は甚だ苦しい。義務教育の新制中学を犠牲にして、極く一部のものに豊かな高等教育を続けるのは考えものである。
今、私の手元にある「戦後教育史への証言」(日本教育新聞社発行、昭和46年10月)には、われわれが戦後経験した教科書のghq指令に基づく『スミ塗り』通達に始まり、教育基本法の制定、六・三制導入にいたる経過が詳しく、しかも臨場感をもってどろどろしく検証されている。長崎県で起こった占領軍と教育界のやりとりを知る上でも、当時の中央あるいは他地区でのやりとりを知る必要がある。いくつかの部分を抄録しておきたい。
(一)アメリカ教育使節団が残していった教育改革に関する報告書は、名目としては「勧告」だったが、ghqから日本側に提示された時点では実質的に「命令」であった。文部省は報告書に示されたさまざまな教育改革を実行しなければならなかったし、その前に"新しい教育"とはどんなものかを教師に理解させ、洗脳する必要があった。(43頁、米国教育使節団来る)
(二)『よく学び、よく遊べ』のユニークな教育実践で知られる金沢嘉市氏(元東京都小学校校長)の回想「終戦になったとき、私は私なりに戦争責任を感じ、何度教壇を去ろうと思ったかしれません。しかし新憲法と教育基本法の内容を見て、よし、これならやっていけると考えました。贖罪のつもりで民主主義教育に全身を打ち込んでみようと思ったのですが、その後ずっと今日に至るまで、憲法と教育基本法は実践のささえになってきました」(68頁、教育基本法の制定)
(三)「新教育法案が国会で討議されたとき、この教育制度改革をとやかくいったり、骨抜きにしたりするな、という一般の人びとからの手紙が600万通も議員連のところへ舞い込みました。一般国民がこのようにはっきりと、しかも大勢で、自分たちの考えを述べるなどとは、戦前の日本ではとても考えられなかったことだ」
六・三制の実施を望む世論がいかに強かったかを伝えるものであるが、なにせ校舎も足りなければ教員もいない、教科書用紙さえ満足にないという最悪の状態。
制度改革の責任を負う文部省としては、こんなにつらいことはなかった。(76頁、六・三制前夜)(四)岐阜県も他県同様、教育行政を牛耳っていたのは軍政部。軍政官はガスタフソンという軍服を着たシビリアン(前職は数学教師)で、23年度からの新制高校の発足を控え、小学区制、総合制、男女共学、いわゆる高校三原則を即時実施するよう迫ってきた。教委側は混乱を予想して漸進主義をとろうとしたのだが、ガスタフソンにはそれが気に食わない。ついに名古屋の東海北陸地区軍政部から上司を招き、県教育委員長、教育長、総務課長ほか中等学校長を呼びつけ「イエスか、ノーか!」と、机をたたいてどなった。「一学年づつ、学年進行でやったほうがよい」と、答えた当時の県教委総務課長は間もなく教育研究所員に格下げされてしまった。(121頁、新制高校のウブ声)
つまり、当時の教育改革のすべてが占領軍の「指示、圧力」によるものだとする反面、一方では教育改革を支持する声もあったことはたいへんに興味深い。
淡々と事実だけを追って記録されたその最後に、以下のように結んでおられる。今も懐かしいトンボの眼鏡の奥になにが秘められていたのであろうか。
なお、当時の私の日誌は、すべて使用済みの用紙を裏返して綴じたものに鉛筆で書いてある。県へ提出した答申書の写しさえ、ハナ紙にもならないようなうすぎたないワラ半紙に印刷してある。戦後3年たった当時でさえまだいかに物資不足に悩んでいたかが如実にしのばれる。
森永種夫先生(国語) 「長崎中学名物教師似顔絵集」より
(画・59回卒業生 故 木屋郁博氏)
この検証作業を思い立った後、ちょうど今から一年前になるが、私は大町正三先生に下記内容のお手紙を書いた。
拝啓 今年もはやくも師走を迎えました。大町先生にはご老齢のことと存じますが、いかがお過ごしでしょうか。
私は、長崎東高創立当時、短期間ではありましたが、先生にご指導を賜りました有田俊雄です。(中略)
過日、母校を訪問し、東高発足当時の経過について大町先生に直接お話をうかがいたいと、平田校長にご相談申し上げましたところ、先生にはご老体にてお目にかかることは無理、おたずねしたい用件を書面でとのことでしたので、ここにお手紙させていただいている次第です。当時のご記憶あるいは何かの記録がおありでしたら、もう一度、ぜひご教示賜りたく存じております。
《お伺いしたい内容》
東高創立40周年記念誌「ひがし四十年」には、先生の次のお言葉が引用されています。
事実、長崎県下の他の高校や他県の高校では、旧制中学以来の伝統を継承し、現在創立110周年を謳歌しているところがあります。また、長崎中学がその伝統を継続し得なかった理由に、明治の軍神「橘中佐の母校」を、当時の進駐軍が忌避したという向きもあります。
先生が上記のように述べられたご趣旨がどのような経過に基づくものであったか、ぜひお聞かせいただきたいのです。
それから2週間ほど経って、大町先生から長文のお手紙をいただいた。それも四百字詰め原稿用紙になんと9枚にわたってである。先生には今年84歳になられるうえ、お身体がご不自由で長い時間はとても座ってはおれないとうかがっていたのにこれだけのご返事をいただくとは、そのときの感激はとても言葉にはなり得なかった。お手紙の書き出しの部分を掲載したのでご参照いただきたい。早速内容に入りたいが、全文掲載はとても不可能なので、東高発足前後のあたりにしぼってご紹介する。
第5代校長・大町正三先生
(一)私は、昭和21年5月1日付で旧長中の教員に参りました。長中坂(遅刻坂)、離れた鳴滝のグランド、寄宿舎、武器庫(銃器庫)、平行に並んだ木造校舎、奥にあった雨天体操場、テニスコート等々が思い出されます。すでに年度が始まっていたので、私は5年生(61回卒業生)の副担任としてお手伝いしました。担任は社会科です。そのときの教頭は管野新一郎先生(故人)で、校長は公職追放(?)で欠員、管野先生が事務取扱をしておられました。教務主任は森永種夫先生(故人)、訓育主任は重籐(英語)先生だったと思います。
(二)22年度は長中として最後の年です。私は5年1組の担任を命ぜられました。管野教頭は新制中学発足の中心人物として勝山中学(後の長崎中学)校長に転出され、このとき、高橋貞夫、高橋伴治、横山(地理)、石井(理科)その他の各先生が新制中学に転出されました。その頃から新制高校発足の問題や統合問題もちらほらと噂が飛び交いました。(中略)
当時進駐軍の教育担当はニブロとよばれた人だったようです。通訳は松岡さんと いう方だったと思います。時に長中に来ては、戦時色は残っていないか、民主的に学校運営や教育が進められているかなどについて視察に来校されたようです。何しろ絶対的権限を持っていたのがこのニブロ氏だったのです。(三)他県はあなたのお手紙にもあったように福岡、佐賀、宮崎、熊本、鹿児島、大分 (私の母校大分中学は県女、県第二女を統合して1校になったのです)各県は同窓会がそのまま残るような形にして新制高校になりました。ところが長崎県(特に長崎市と佐世保市)だけは文字通り学校が真っ二つにされて東、西両高校となったのです。橘中佐の問題ではなかったと思います。教育担当官(進駐軍)の考えによるものと私は今でも思っています。詳しいことは小谷校長からも聞いていませんでした。森永先生亡きあとは、そのときの長中幹部としては俵先生(第4代校長)と私のみとなりましたから、これ以上のことは誰に尋ねようもありません。県教委の記録にあるいは残っているかもしれませんが、よくわかりません。
(四)職員も生徒も、竹久保の焼野原の中の西高より東高にとどまりたいと思ったのは 人情として仕方がないことです。それ故に職員生徒の分割は難しい仕事でした。これを書きますと切りがありませんので、大まかにいって中島川を境にした左岸、右岸で生徒を分けたように覚えています。何しろ、長中が最も多人数ですから、長中がきまらぬと全体がきまらなかったのです。しかも、東西同人数にしなければならず、地図のように定規をあてて引くようなわけにはいかず、とても困ったことを記憶しています。
(五)何故4つを2つにしたのか。何故それぞれに分割したのか。東、西でなくほかに名前はなかったのか。同窓会の存続をとは考えなかったのか。県の担当者や校長協議会などはどう対処したのか。pta(この名前はこのあとのことです)はどんな役割を果たしたのか。私にはほとんどわからないことばかりです。私はただ目前のいろいろな事態に対処するため右往左往しながら、私なりに一生懸命務めただけです。
(六)それから東高も50年経ちました。私も46年から50年まで今度は校長として東高に世話になり(第5代校長)、昔、山本先生が座っておられた椅子に腰かけて感無量でした。廊下を昔を思い出す子供たちの屈託のない声が走っていきました。
長中と東高、さらに校長として4年。今また50周年。長生きすればいろいろあるものです。 いくら書いても切りがありませんので、これで終わります。
大町先生からは、「ひがし四十年」にお書きになっておられる内容に直接触れていただくことはできなかった。しかし、母校である大分中学の例が引き合いに出されている。卒業生の対応が長崎とは違った、同窓会としてですか、いや県当局の幹部に多くの卒業生がいて、進駐軍の主張にもがんとして首をタテにふらなかったのだということを後からどなたかに漏れ聞いた記憶がある。
ここで旧制長崎中学を日本最古の中学のひとつとするのは、長崎中学の発生起源を明治5年の「学制」による官立中学校(東京2校、大阪2校、長崎1校)にまでさかのぼることに由来している。長崎英語学校とする場合でも、その創立は明治7年末である(「ひがし四十年」参照)。
創立50周年記念座談会の記事(前編)が掲載された「東風」18号を、梅田倫平校長のご子息で、親子二代にわたって東高校長を務められた梅田和郎先生にもお送りしたところ、思いもかけず長文のお手紙をいただいた。
その後も帰省の折りにお宅にお邪魔して、倫平校長の遺稿集をいただくとともに貴重なお話をうかがった。和郎先生には、ちょうど倫平校長が東高校長にご就任のそのときに、新任教師として長崎西高に着任されたとのこと。
このとき、ひとつの疑問が解けた。「ひがし四十年」の統合前後の部分の執筆者が和郎先生であられたことである。50周年の節目に平田前校長がそうであったように、和郎校長もまた40周年の準備をしながら、その式典の折には退職されておられたとうかがった。
実は、「ひがし四十年」を何度読み返しても執筆者を思い浮かべることができなかったのである。下記に引用させていただく。
(一)高等学校の出発にあたっては、福岡、佐賀、熊本、大分等の各県が旧制中学の姿 を保ったまま高校へ移行しているのに対し、長崎県それも長崎市・佐世保市だけが特殊な出発をしているのに私どもも疑問を持っていました。そのため、校長会誌が出されるようになると、すぐ第2号(昭和43年)に直接かかわっておられた森永種夫・高橋一男両先輩の原稿を中心に、高校発足20周年記念特集をされたのではないかと推察します。
(二)「ひがし四十年」でも取り上げましたが、それは学校としての歴史であるため、客観的な記述になったのでした。従って、手紙にありますように、生徒の立場、先生方の当惑の状況が描かれていないきらいはあろうかと思っています。先生も生徒もそれぞれが「未知との出合いをどう乗りきった」かについては個性的でしたでしょうから、この機会にもう一度掘りおこしてみられたらいいかと思っています。
(三)統合当時の客観的な記録がないのは、昭和25年5月7日に県庁(立山庁舎)が焼失したため、文書、各種簿冊がほとんど焼失し原簿がないからです。
(四)(当時の記述の多くが「主語なし」で書かれているために、実体験として聞こえてこないという点に関して)統合前後に明確にされない不明な点があるのは、行政機関の上に軍政府の存在があったからでしょう。 教育改革について、それぞれ議論して原案を作成しても、軍政府の意向により簡単に変更させられたと聞いています。
当時のことを聞き出すときにぶつかる問題です。
第9・11代校長・梅田和郎先生
和郎校長には、こうした検証は東、西が合同で取り上げ記録を残すよう、あるいはもう一度未知の部分に共同で踏み込んでみたらとアドバイスをいただいた。和郎校長はまた当時の西高に在籍されておられた若手の先生方と今でも定期的に交流があること。ご自身でもかなりの資料を収集しておられるとうかがったが、次回お会いしてその後の経過をお伺いするのが楽しみである。
(一)マッカーサーは日本占領にあたり「マッカーサーの5大改革」といわれる布告を出したが、その中の「学校教育の民主主義化」こそ「第2の教育改革」と呼ばれるものの内容です。それまでの軍国主義的教育から自由主義的・民主主義的教育への変革こそが眼目なのに、「ひがし四十年」ではこのことに触れていませんね。
(二)教育の民主化の線に沿って、当時、教職員適格審査が行われ、私も新しく教員になるに際して適格であるとの審査を受けたのです。大学では、この審査によって多くの先生方が追放され、また自ら身を引かれた先生方もおられたのです。東高でも行われたと思いますが、このことにも触れていませんね。
(三)アメリカ式なのか、先生方は校長・教頭・教諭(一級、二級)にわけられ、大学卒は一級、校務のベテランの先生が二級だったり、昇級のための講習や試験が行われるなど、たいへんに混雑し、慌ただしい状況でした。
(四)それぞれ伝統・校風を異にする4校の先生方が東高教員となられ、戦前から教員であった方、私どものように軍隊にゆき、戦後新制大学を経て新しく教員となったのがいるというのが、当時の東高教員の状況でした。
(五)皆さんの思い出の中からどんな小さなことでも寄せ集められ、それらが学校歴に従ってまとめられてゆくなら、当時の東高の姿が具体的な体臭を持ったものとして見えてくるのではないでしょうか。
(六)原爆との関係も無視するわけにはゆくまいと思っていましたら、「東風」の中での大久保さんの発言は大切だと思いました。(中略)
大久保さんは動員数の60%を失い、校舎を失い、散り散りになった後の瓊中生が、20年9月に長中に間借りして2部制の授業を開始したと述べられているのは貴重ですね。
長崎東高誕生検証ノートは、戦後、新しい教育制度のもとで、教師、生徒が一体となって「未知なるものの扉を切り開いていった記録」でもある。といって卒業後もずっと母校の動静に目を向けていたかといえばそうではない。むしろその逆であったといったほうがよいだろう。社会人となった昭和30年代の始めから、一貫して日本の高度成長の担い手としてわき目もふらずに働きづめだった創生期の同窓生たちであったが、ここでようやく第一線を退き、創立当時に思いを馳せる時期を迎えた。それにしても、50年の歳月はあまりにも長い。
山口光太郎氏ほか在京同窓会の幹事の皆さんのご協力を得て実現した座談会の記録は、思いがけず大きな広がりを見せた。その結果、検証作業とは、自分たちが「語り部」になることではなく、その前に今でなければもう掘り起こせないであろう当時の実証言を自分たちで集めることだと気がついた。大町正三先生、梅田和郎先生、石田明先生からいただいた長文のお手紙をできるだけ多く、しかも客観的に抄録させていただいたのはそのためである。
検証作業は、旧制長崎中学の伝統が失われた経過にこだわりすぎたようにも見える。この点では石田先生の「学校教育の自由主義化こそ大事ではなかったか」とのご指摘は重い。われわれの東高時代こそ、その開花時代の申し子ではなかったか。
◆検証には、私が経験した長高、東高だけでなく、もう一方の瓊浦高、西高、女子高からの視点が不可欠である。その意味では、今回は多くを引用するにいたっておらず、まだまだ不完全である。
実は私の周りにもうひとり当時の生き証人がいた。私の母「有田敏子」である。すでに述べたように、母は県高女教員(家庭科)を経て、統合によって西高の鳴滝校舎に移っていった。東高誕生の検証には、西高から見た検証と合わせみる必要があると書いたが、私にはいざとなれば母に聞けばよいと安心しきっていたところがあった。しかし、本年12月で90才を迎える母との対話はもうない。老床に横たえている母の手をじっと握っているだけである。
ここに西高創立30年記念誌に母が寄せた回想から一部分を引用させていただいて、検証ノートをひとまず終えることにする。
◆回想「鳴滝時代の思い出:男女共学初のクラス担任 有田敏子それは昭和23年秋のことである。その当時、私はまだ30歳代、女生徒ばかりに接していた身にとって、男女共学ということは物珍しく胸はおどっていた。統合後、始めての職員会議。半数以上は未知の先生方である。教務主任の高橋先生からクラス担任の発表があった。担任を命ぜられたのは男の先生ばかりであった。女の先生には男の子の扱いは大へんだろうという心づかいからである。その時、私は勇気を奮るって「クラスの半分は女生徒なのです。一人位女子の担任がいてもいいと思います。私には同じ年ごろの男の子が二人もおり、男の子の扱いには慣れていて自信があります」と異議を申したてた。何というおこがましさであろう。今ならとてもできないことである。若かったからであろうか。というようなわけで、待望の1年2組のクラス担任となった。
始めて受け持った共学のクラスに理想は燃え情熱をかたむけた。男の子の中には見上げるような大きいのもいれば、私と背丈が同じ位の可愛いい子もいた。早く男女間が解け合うようにと、席は男子と女子を交互にならべた。掃除当番は男女混合でするようにした。クラス委員も男女から選出した。ちょっとしたトラブルがないでもなかったが、まずまず思い通りに育っていった。彼等は今では立派な中年の紳士淑女になって、それぞれの分野で活躍している。毎年催される不老会(26年卒業生の会の名称)にはこの2組の連中は仲がよく出席も大へんによい。
以上のようないきさつで受け持ったので私にとっては生涯忘れられないクラスである。
(追記)各先生方のお手紙は、当時の東高新聞とともに、東高資料館に保存をお願いする予定です。
1998年11月