長崎東高創立50周年記念特別座談会

東西誕生の頃 50年前の「記憶を記録へ」

昭和23年11月1日、新制長崎高校、瓊浦高校、県立女高、市立女高の4校の統合合併により、長崎東高、西高が誕生した。
京都と並んで全国に先駆けての男女共学の実施であった。いっぽう、なぜ旧制中学からの継承はなされなかったのかなど疑問も残る。いかにして東西両校は誕生したのか。合併の裏にどのような動きがあったのか。
東高の伝統はどこから生まれてきたのか。東西誕生の時代にスポットをあてる。


■開催日
97年9月27日(土)
■開催場所
銀座長崎県人クラブ
■出席者
●1回生 大久保仁さん ●2回生 石亀博子さん(旧姓 頓 田) ●3回生 中村博彦さん、笠井千佐子(旧姓 早水)さん 有田俊雄さん ●4回生 吉田佳広さん
■司会
『東風』編集:●山口光太郎(17回生) ●亀川明子(26回生)


山口
本日はお集まりいただきありがとうございます。有田さんから、母校の創立50周年を機に、東高が誕生した頃、特に東西に統合されたことを記録に残したらどうかという提案をいただきました。当時、どのように東西統合が行われたのか、東高の成り立ちがどうであったかはたいへん興味深い部分があります。また、先輩方が東高の伝統を作った第一歩であるし、その頃を検証したいと思いこのような座談会を開きました。まず、自己紹介をお願いします。
大久保
1回生の大久保です。統合の時に瓊浦高校に在籍いたしておりましてそちらから東高に移ってきました。昨年、会社を退社いたしまして現在年金生活に入っております
石亀
旧姓頓田でございます。県立高女を卒業して高校2年に編入というちょうどその辺です。
中村
3回生ということになっているんですけど、実は卒業はしていません。2年終了で、東京へ出てきて、武蔵高校へ入りました。統合の時にいろんなことがありました。時間的な経過がよくわからないので、後で検証してください。
笠井
高校一年のとき。県立女子高体操部として国体から帰ってきたときには、東高のクラス編成ができてたの。
中村
私も同様に、新制長崎高校のバスケットボールチームで国体へ行ったんだけど、帰ってきたらその時点から分かれまして、西高の連中は鳴滝、もとの長中へ戻ったわけです。東高の連中はもとの県立女高へ行きまして、そうすると名簿が貼ってあるんですよ。そこで何組というのがわかって、クラスに行ったという記憶があります。
座談会風景
笠井
3回生の笠井です。私たちの学校県立女高は、黙っていても東高になるのでそのまま居座ってて良かったわけですよ。当然のように学校へ行けばいいんだから。聞いて初めて、「ああ、そうだったんだあ」と思いました。市立の人たちはやっぱり、不安とか戸惑いとか期待とかがあったというけど、県立はみんなボーッとして覚えてないなとか言うんですよ。
有田
三回生の有田です。私たち3回生は、旧制中学に入学したのが昭和二十年四月。ですから終戦の年、原爆の年に中学の一年でした。旧制長崎中学といえば我々は六十四回生で、入学はしましたけれども卒業はしていません。旧制中学から長崎高校に移り、長崎高校は七カ月で長崎東高校に変わりました。その移り変わりというのが、今日の一番の主題だと思うんです。

統合ニュースを長崎高校新聞部がスクープ

山口
長崎高校になったのは、二十三年ですか?
有田
二十三年の四月。十一月一日に東高が始まっていますから、長崎高校は七カ月しかなかったんですね。私は長崎高校時代から東高卒業までずっと一貫して新聞部にいました。おもしろいことに、当時の長崎日々新聞が公立高校統合を報道したのは二十三年の九月十九日なのです。ところがその前の九月一日付長崎高校新聞が先にスクープしたんですよ。一般紙が後追いをしたわけです。そのスクープをしたのは、今、佐賀大学にいる田中道雄君ですが、彼がどこからこの情報を入手したかは、彼自身に聞いてみたいところです。私の記憶だと、ニブロ教育官がいた長崎駐在のアメリカ軍政府からスクープしてきたように思うけど。
吉田
四回生の吉田佳広です。入学したのが、旧制中学、長中の最後なんです。とにかく後輩が入ってこないものですから、常に最下級なんですね。学校で「ウサギ狩り」というのをやらされますと、後輩はいつも一番下から上まで岩かげとか草むらをかき分けながら追い上げなきゃいけない。だから後輩が入ってこないことを、みんなブーブー言ってましたね。それが東高の発足と同時に、当時の三年生は、四校全員がいきなり併設中学校に集められました。生徒数は千人を越えてました。長中、瓊中、県女、市立の四校の同学年の学生がみんな集まったわけですから。クラスが三十何組まであって、僕は十八組だった。
中村
先生はどこから来たの?
吉田
先生もゴチャ混ぜ。それが半年間であえなく東西に分断されたものだから、西高はまさに我々の兄弟校であって、西高はイコール東高という感覚で、今の人たちとは全然違いますね。
山口
有田さん、今までの話を受けて、東西統合への移行のあらましを総括していただけますか。
有田
東高創立四十周年の記念誌「ひがし四十年」の中に、統合への経過が時系列に沿って書かれています。長崎県に新制高等学校統合の準備委員会ができたのは、直前の二十三年八月なんですね。十一月一日に統合を実施せよというのは、上からの指示。上というのは誰かというのをちゃんと検証しなくちゃいけない。「ひがし四十年」の中では、みんな主語のない言葉で書かれているんです。
中村
八月の始めには統合の基本方針が決まっていて、実行委員会みたいなのが後からできたんじゃないの?

新制高校設立の三原則

有田
これも「ひがし四十年」からの引用ですが、新制高校設立の三原則というのが先にあって、(一)学区制(二)男女共学(三)総合性の実施を迫っていたとあります。ところがあとになって、その原則が県とか地域によってずいぶん違った結果になっていることが分かります。例えば、福岡の修猷館のように、新制高校にはなったけれども、そのまま男子校の伝統を受け継いでいます。女生徒が入るようになったのはずーと後からです。
長崎の場合は、男女共学をやること、学区制に移行することが最初から示されており、対応の差が出ています。多分、ニブロさんに代表される当時の長崎駐在米軍政府の強い意向だったと思われます。八月末にようやくその線での作業が始まっています。十月二日の長崎日々新聞では、まだそれでも学校区が最終的に決まっていない。中島川で分けるという案が理事者側から出ている。理事者側というのは県庁とかghqでしょうね。おそらくその時点では、学生たちはかなりナーバスになっていますね。だって当時東高のすぐ横に住んでる人が西高区域になるわけですから。ただ、その時にみんなが「いいや」と思ったのは、僕ら男子側でいえば、西に決まった生徒達の行き先の学校が鳴滝の長中だったからではなかったかと思います。
石亀
そうそう、近いからね。
有田
いずれは竹の久保に移るんでしょうが、とりあえずは今まで通っていた長崎中学、鳴滝に行けばいいんだから、あんまりそこには抵抗がなかった。ただ西山のあたりに住んでる連中は「目の前にある東高になぜ自分が行けないのか」と。ものすごく反発したのは運動部、筆頭が中村君達のバスケットボール部。長崎高校で国体に行くだけの実力を持っているのに、帰ってきたら、なんで分けられるんだということになった。
最終的には、十一月一日にはとにかく東か西に行かせるんだとなった。校長が決まったのが十二月一日。校長先生も決まらないままに、とにかくここに住んでるものは東高に行きなさいといわれ、行ったらクラス割りが貼ってあった。おそらく西高もそうだと思います。
「ひがし四十年」の中に大町先生がこういう言葉を書いておられます。「新制高校成立の折り、旧制中学を受け継ぎえなかったのは、全国で長崎市及び長崎県のみであった。それが悔やまれてならない」とあるんですが、どうして長崎だけがそういう立場になったのか。一説によると、明治の軍神橘中佐の母校は長崎中学であるから、「これは潰せ」という意見もあったとか。同じように広瀬中佐の母校は岡山中学だから、「これも潰せ」と。そういう訳で、潰されたのは長崎中学と岡山中学だけだという説もあるんです。これはこれから調べてみたいと思います。
山口
昭和二十三年四月以降に高等学校になってますね。旧制中学から高等学校に移行する時の意識というのは、どんなものだったでしょうか。
大久保
みなさん、あまり瓊浦中学についてご存じないでしょうから、ちょっとご説明します。昭和二十三年三月に旧制中学の瓊浦中学校あるいは長崎中学校は、最後の卒業式を迎えているわけです。
山口
そうしますと瓊浦中学は瓊浦高等学校、長中は長崎高等学校になったんですか。
大久保
県立高女も長崎県立高等高校ですか。
石亀
高等はなくて、長崎県立長崎女子高校です。
大久保
私どもの世代は、先輩後輩が入り乱れているんです。ということは、戦時中に軍関係の学校に行っていた者が全部帰ってきまして、それで三年分くらいは先輩・後輩の関係が入り乱れているんです。
東西両高の発足については、どこの記事も二十三年十一月一日になってますが、瓊浦中学の記事によりますと、十一月二十三日になっているんです。私の記憶では一日からみんな東高へ行ってはいないはずなんですよ。たぶん男子トイレなんかなかったはずですから。
有田
これも調べてみようね。学校の教務日誌などはもう残っていないだろうなぁ。

旧制中学の原爆犠牲者

中村
原爆で校舎を完全に破壊された瓊浦は、二十三年の東西発足までは、長中に仮住まいなどしてジプシーやっていたんだ。それが統合によって東とか西に至るまでの生徒たちの意識構造、意識変化をうかがいたいですね。というのは長中は原爆の被害が少ないんです。原爆被害があるのは瓊中と県女ですよ。
石亀
県女の場合は、生徒たちが全部、学徒動員で浦上に行っており、それでやられてるんですよ。記録によると、県女の生徒および職員の死没者は一九一名とあります。
大久保
東西創立時の生徒数をみますと、男子の場合、東高の一回生は、瓊浦中学は二十四名なんですよ。長崎中学が百一名。ちなみに西高の方が、瓊浦中学が四十七名、長崎中学が七十五名なんです。合計しますと瓊浦中学は七十一名しかいないんです。瓊浦中学の原爆犠牲者数は四百三名で、これは当時動員数六五六名のうち、六十%にあたります。原爆で校舎を失い散り散りになっていた生徒が八方手を尽くして集められ、昭和二十年九月に、ようやく長中(鳴滝)を間借りして、二部制の授業を開始しました。

座談会風景

石亀
いかに直撃だったかということよね。あっ、一回生には市立の人はいらっしゃらなかったんだ。出身校には制限がなかったって聞いたけど。
大久保
西高にも一回生に女子はいません。
有田
「ひがし四十年」では東の一回生の女子は十名となってます。
笠井
進学の人が来てました、大学へ行く人が。だから諌早とか島原の人とかね。それとあまりにも人数が少ないから、1校にまとめたんでしょうね。
山口
昭和二十三年当時の意識としては、四月に旧制中学から新制高校に移行するよりは、十一月に共学になることの方が重大だったんですね。旧制中学から新制高校に変わる時、中身がだいぶ変わるのかなと思ったんですけど。
中村
ない、ない。だから長崎高等学校というのは、幻の高校だったと言ってるわけよ。
石亀
名前が変わっただけ。
有田
旧制長崎中学から長崎高校に変わる時の僕らの意識の無さ、それをニブロさんから見ると、「この6・3・3制は、そうじゃない。これはとんでもない。だから学校を統合しろ、共学をしろ」となって、その意志が先に強く出たのではないかと思う。

共学・学区制は進駐軍の意向?

石亀
私の聞いた噂では、もともと共学・学区制というのは、東京の進駐軍の方から出た大前提だったらしいんですよ。ところが、各地方地方の抵抗がものすごくて、どうにもならない。旧藩校の流れを汲む学校はテコでも動かない。雄藩のところほど、うまくいってないんですね。長崎は天領だったから、藩主さんがいないので割りとホイホイしてるでしょ。そういう県民性というのがあったんじゃないかしら。
中村
旧制長崎中学の実態を感覚的に話したいんです。僕らが長中に入ったのは、昭和二十年の四月。三年以上は全部学徒動員で出ちゃってたんですよ。僕らは上も下もいないから、校舎の中はガランとしてた。校庭は全部耕して芋畑なんですよ。僕らはそういうことをやってて、授業なんてほとんどなかったのね。芋畑の芋の苗を矢上まで買いに行ったりね。
二年になると、終戦で上級生が復員してくるわけです。予科練の連中とかが四年生五年生まで帰ってきましたよね。今度は帰ってきた人たちからぎゅうっと絞められちゃったわけですよ。そこでこれではいかんと、四月くらいから運動部作りを先生たちが始められた。僕はバスケット部に勧誘されまして、市立や県立の立派な室内体育館でやるようになったんです。四年生や五年生の先輩が帰ってきても、僕らの方がはるかに練習してるから腕が上達してるわけです。僕ら二年生主体のチームで九州大会なんかに行って、そこそこイケちゃうんだよ。長中籠球部はものすごい伝統があって先輩たちが結集してくるわけです。今度の二年生はひじょうに見所があるということで、五年生までの四年間で全国制覇をやろうという目標がたてられました。それが二十三年に四年生になった時、降って湧いたのが、統合と男女共学の話。どういうふうに男女共学になるんだって言ったら、長中と県女が一緒になるというわけですよ。瓊浦と市立が一緒になるんだと。もう大歓迎なんだよ。だって立派な体育館があるんだから。
いつからなるのかと待ち望んでるんだ。それが八月に入ってからだったと思うんだけど、「実は、そういう統合方式がご破算になったよ」という話が出てきた。その時すでに中島川で分けるという話が出たんです。
石亀
それ、いつごろ?
有田
八月末に、男女共学の次に挙がってるのは学区制。先ほどの長中・県女、瓊浦・市立のような単純な統合はいかんと。
笠井
急に決まったんだねえ。たったひと月くらいの間にバタバタと。
有田
東西の二校は、均等であること。学生の数とかね。今のいきさつをね、当時長崎高校の教頭であった森永種夫先生が、「高等学校統合前夜日誌抄」(校長協会会誌2号)に残しておられるようです。このへんのところを読むと、どこの会議でどういう話に変わったというのがわかるね。ほんとはここを見たい。
中村
終戦になって、何が変わったかというと、ptaが発足したんです。統合のような大事なことを校長会でやってるっていうから、そんな大事なことを決めるのは、ptaじゃないんですか?という質問を出したんです。チームのおやじがpta会長だし。それで「どうしてpは関与しないんだ。tだけで決めていいのか」ときいたら、「いや、どうもtだけじゃなさそうだ」と。そこに軍政府の係わりがあるんだなということになった。
吉田
大久保さん、すべからく民主的、平等という空気があった時代に、瓊中と市立女子、長中と県女をもし統合した場合に、生徒数の格差とかいう問題はなかったんでしょうか?
大久保
瓊浦中学は原爆で校舎を失ない、校舎を求めて渡り歩きましてね。生徒は引っ込みがちになっていました。東高に統合された時に、瓊中生が少なかったこともあり、長中、県女が主体になってしまったわけです。はっきりいって、瓊中生は影が薄かったということです。
我々はわずか四カ月半くらいしか東高で勉強していませんし、学校の雰囲気に 溶け込めなかったのです。もっとも、私はテニスをやっていましたので、長中、県女、市女のテニス部とは統合前から親しくしていましたから、少しはよかったのかも知れませんけど。校風も違うわけです。長中は歴史が長いし、自由な精神がずーっと育ってきた。瓊中は長中から別れた学校であっても、「不撓不屈」という校風を掲げてずーっとやってきた学校ですから、気質が全く違っていたんです。私自身、長中出身の友達は二人しかできなかったのですから。東高というのは明るくて良かったんですが、瓊中生にとっては、なじめない学校だったんですね。
吉田
特に短かったからね。これが二年でも一緒にやってれば、また変わったでしょうけど。
大久保
ですから我々にすれば、山里の校舎で過ごした頃がいちばん楽しかったんです。瓊中は、昭和20年9月に鳴滝の長中を間借りして授業を再開しました。長中の校長が瓊中の校長を兼ねるという変則的なものでした。そうしたことから、ちょっとした騒ぎになりましてね。長中に間借りしている間は、二部授業でもあり、肩身の狭い思いもあって、とても学業に専念する気持ちにはなれませんでした。
昭和22年1月に原爆で廃墟になった山里国民学校が修復され、瓊中は長中からここに移転しました。移転と同時に専任の校長が着任され、瓊中本来の姿に戻ることができました。山里校は物資が不足していた時代に修復されましたので、ガラスなどが手に入らず、窓は板で覆っただけで、実にお粗末なもので、寒風にさらされながらのつらい授業でした。それでも我々は明るさと落ち着きを取り戻すことができました。新制の県立瓊浦高校は、こうして山里の地で始まったのです。
中村
僕の関心は東高以前にあるんだよ。東高西高というのは、ひとつの秩序ができたという表現なんだよ。だから原爆からそこに至るまでの無秩序の時代こそが我々の青春の原点なんだよと。 座談会風景
有田
旧制中学から新制高校、長中から東、瓊中から東というなかに、校風みたいなものがどう変わっていったか。それを語っていきたいんだよ。
大久保
ちなみに、西高の方は瓊浦中学の校風を受け継いでいるように思います。校門のそばには、今でも「不撓不屈」の碑が建っているし、創立してからしばらくの間は、瓊中の応援歌が歌われていたと聞いています。
山口
なぜ継承じゃなくて統合かというと、ひとつはバランスの問題。バランスというのは、大久保さんがいわれた当時の中学生の気質の問題もあったし、原爆被災による生徒数の調整もあったし、伝聞かもしれませんけど戦前の軍人精神を潰すという目的もあったと。それが長崎は京都と並んで、新制高校に移行するのが一年早かったということですね。
大久保
もうひとつ、忘れてたんですけど。東高発足時の先生の配置は、長中、県立高女の先生が多かったのではないでしょうか。瓊中の先生はわずか四人でした。そうすると、瓊中の先生は、西高の方に多かったということになりますね。

統合問題と民主主義

中村
でも印象としては、東高には県立の先生が一番多かったような感じがするなあ。統合の話に戻りますが、統合の時に大問題だったのは、民主主義の原則に外れているということだったんです。民主主義とは何かというと、当時はptaが民主主義の象徴であったわけですよ。我々に与えられた民主主義とはそういうものだったんです。それまでの保護者会というのは、何の権限もないんだよね。学校のお達しを承る会であった。ところがptaとなると、ちょっと違う。pの方が上でtの方が下にきてるアソシエーションなんでね。ところが統合に関しては、pは一切関与がなかったということが大問題だった。
有田
pの意見を聞いたら、まとまらなかったか。
石亀
あれはほとんど東京の方からビーッと来てる感じがすごくあったね。
中村
ghqでしょうねえ。
有田
今、公文書図書館というのがあるよね。ああいうところへ行って、当時の文部省の通達をもう一回長崎のものとつき合わせをした方がいいですね。それからニブロさんのひととなりをどこか別の角度から見てみるといいですね。
ここになつかしい写真がある。二十三年八月、長高新聞の新聞部と石亀さんが編集長をやっていた女子校の新聞部とが一緒に小倉の朝日新聞西部本社に見学に行っている。このときには、自分たちは、統合によって同じ学校になるという意識がもうあった。これが八月二十二日。
山口
そうすると男女共学という意識はもうあったということですね。
有田
もう充分にありました。
大久保
三回生は男女共学をやったんですか、同じ教室で?
有田
十一月一日、東高発足の日からです。

十一月一日、統合のその日

石亀
その日から。男生徒と女生徒とが市松模様に坐って。それからもうひとつは統合の日に校庭に間を空けて並んでたら、その間に男の子が列を組んでジャンジャンジャンと入って来たの。私、幻かなと思ったんだけど、誰も覚えてないのよ。誰か覚えてない?
吉田
でも、そういうことがあったんじゃないかな、大いに。
石亀
そうよね。一番最初に男の子が来る時に、何もしないということはないと思うよ。きっと一度長中に集まって、そこから隊を組んで東に来たんだと思うのよ。
吉田
私はね、併中になった時、何かセレモニーがあったかなと考えているんだけど、何にも記憶がないですね。
中村
統合前夜ってのが、あるんですよ。長中だけの問題だけどね。夏休みにそれまでの統合案がご破算ということになり、二学期が始まったわけです。そこまで問題は持ち越したわけね。あとどうやったかというと、各クラスに帰って、その頃のクラスはイコール自治会だったんです。つまり、級長とかいうのはなくて、自治委員だよな。そのクラスの代議員が音頭をとって、統合問題をやったわけです。授業はボイコットなんだよ。
有田
そこまではやったんだけど、校門の外へ出て行ってビラを撒いたりはやっていない。
中村
九月になりまして、クラス自治会で次々と「断固反対決議」をやったんですよ。その時、高一だよね、まだ。それから、学年大会というのを、柔道剣道場に全員集合してやったわけですよ。学年決議というところまでもっていった。大義名分は「ptaを無視してる」というその一点なんですね。「上の方で勝手に決めて、それを我々は承服するわけにいかない!」と。
それから上の二学年にも声をかけようという時になって、我々が学年大会を開 いた翌日かな、学校側から全校集合がかかったわけ。その頃朝礼はもうなかっ たのに、にわかに朝礼台のある広場に集められて、教頭先生以下ずらーっと並 んで、戦前からの権威ある先生たちが「みんな、わかってくれ。鎮まってくれ。我々としてはもう決められたことなので、従うしかないんだ」というわけだ。あの時の教頭先生は森永先生。一年生担任で長中先輩の若浦先生をはじめ、先生方は土下座せんばかりに涙を流されて「とにかく、わかってくれ」と説得された。それで、しぼんじゃったんですよ。結局、生徒としては引き下がるしかなかった。これで長中の統合騒動は終わったんですよ。その先生方は旧制中学の先生たちだったので、絶対的な権威をもっていた。
有田
私の親父が長中の名物教師だったから、物心ついてから考えるとやはり印象に残るのは、先生方ですね。長中には瓊浦のような「不撓不屈」という伝統はなかったかわりに、先生方には「自由な文化人」という雰囲気がありました。映画演劇を語ってくれたのは若浦先生、新聞の作り方を教えてくれたのは、ご自身が中日新聞におられた石田先生。学校で教科を教える以外に何かプラスアルファというか、自我の確立というか、そういうものを持っておられた先生方の印象が強いですね。
石亀
長中の先生には奥の深い方が多かったね。県女にもいらしたけど。
中村
東高でガシャというニックネームの金子先生という方がいましてね、数学の補修クラスをやってたんですよ。僕は東高の勉強はガシャの勉強しか覚えていない。ものすごく役に立ちましたね、一年生のときに、だいたい二年生くらいの数学をやってくれたんですよ。補修ですから自由自在にやっていたのね。僕は数学一本槍で進学したくらいの恩恵を受けました。
吉田
ぼくらもそうでしたね。ぼくは語学がたいへん苦手だったんですが、クラスの担任がキューリ、芝岡先生でした。入学式のとき、芝岡先生にあたらなければいいがなと思っていたら、あたってしまった。そのときに、上級生からどよめきが聞こえてくるの。どうしたのかなと思っていたら、先生が笑ったというのね。笑ったといっても目が細くなっただけなんだけどね。芝岡先生が担任だったもので、英語の勉強だけはした。
有田
男女共学になったとき、三つの問題があった。一つは、自治会の問題。自分たちで決めていけるんだ。それにしても少し無関心過ぎるのではないかと。二番目は共学でのモラルの問題。三番目は学力低下の問題。学力低下といっても、女子の側にはもうかったというところがあった。先生方についていえば、東高の先生は我慢強かったと思います。特に僕らは新聞部という立場もあったけど。校長先生はすぐ梅田先生にかわったでしょう。梅田先生の最初のご挨拶が例の「梅はうめ、桜はさくら」ね。あれは、東高新聞に着任の抱負として書いておられる。
梅田先生のご方針は「たいていのことは学生に任せてみる」ということね。 教頭の森永先生もまた、「眠られぬ夜のために」で親しまれたスイスの思想家 ヒルティを引用されて、「さあ、元気よく飛び込め、余り深くはあるまい」と、やはり、東高新聞の文化欄に残しておられます。生徒にやらせても、たいしてケガはしないよということね。東高の先生たちの我慢強さの原点であり、これに僕らは育まれた。
山口
今までの話を伺っていますと、確かに昭和二十三年のドタバタはあったけれど、十一月以降に男女共学になり、秩序が定まって学生の意識は変わってきたということでしょうか。
有田
旧制中学の先生方というのはたいへん偉大な存在だったわけですが、東高に来て一挙に先生方との距離が縮まった。それほど、共学始めすべてが未知との遭遇だったわけです。
石亀
先生がたも意地を張らないで、僕たちだってわからないんだという立場をとられた。
有田
ことにつけ、全部生徒会にアンケートをとり、生徒に聞いていますよ。服装はどうしたらいいの、ホームルームはいまのままでいいのかと。 座談会風景
笠井
非常に自信のある先生たちだったのね。
有田
まずは生徒の意見を聞いてみようじゃないかということね。それが梅田先生の包容力だね。
大久保
そういう点では長中の流れというのは、随分進んでいたんですね。瓊浦中学では漠然としているんです。生徒会もなかったし、統合の話も伝わってこなかったんですよ。行けというから、行かなければならないと思っただけです。

統合は成功だったのか

笠井
統合のとき、中島川で線を引いたといったけど、よく納まったなと思うのは、県立高女と長中は旧長崎市内、瓊浦はどちらかといえば市の周辺部からの人で、お母さん方がお若く長男の方が瓊浦という方が多かったのね。統合の話でもptaに聞いていたら旧市内の連中はおさまらなかったんじゃないの。だから聞かなかったのではないかと思います。
中村
もしpta、昔の保護者会まで聞いていたら、長中、県立高女は東、瓊浦、市立が西で、すんなり決まっていたんじゃないの。
笠井
決まっていないと思うよ。女学校は女学校というお母ちゃまたちがたくさんいるし。長中は長中だったろうし。
石亀
それは良くないことだったのよ。どちらも県立だったし、この際どちらも同じにというのは理想として正しかったと思うの。この統合は大成功だったと思うのよ。
吉田
我々より先輩の方々にはいろいろありましたけれど、僕らの代からほんとうの東高が始まっているんですよ。一体感がありましたから。おまえは瓊浦、おまえは市立ということはなかったですね。
石亀
前の学校のことを持ち込まなかったことは大英断よ。長中も瓊浦もなし。
山口
浦上地区に住んでいて西高で受験し西高に行くものだと思っていたんですが、合同選抜で東高に回されたんですよ。東というのは浦上の人間からみると、向こう側の学校のイメージで、しかも伝統があり、秀才が集まるという。しかし入ってみると自由な学校なんですね。西高に行っていた人から聞いていた西高の不撓不屈、質実剛健の気風とまったく違うんですね。これがどこから生まれたんだろうかと。リベラルというか、スマートというか、自由というか。比較しながらその辺を伺いたいと思うのですが。

東高の校風はいかにして創られたのか

石亀
建物だけにしても、女学校だったというのは大きいんじゃないですか。
笠井
文化がソフトだったと。
石亀
女性文化が背景にあったわけで。作法室がそのままあったり、廊下に鏡があったり。
山口
器の影響は初めて伺いました。
石亀
長崎市は、お奉行様のいる町で、中央(幕府)からの指令にはさからわないけど、うまくすり抜ける知恵があった。地元のさむらいのいない町だったんですよね。すべて町年寄りの自治組織になっていたでしょう。子供達の父兄もどちらかといえば商店街の人が多かった。お勤めの人は三菱くらいなもので、ほとんどが個人経営。だから、自主の気風はあたりまえだった。
山口
そうすると、長中と県女の両方の気風を受け継いでいるということでしょうか。
有田
そう。あの頃先生に言われたことは、すべてに一流をめざせ。鶏頭となるも牛後になるなかれと。一流というのは自分の何かを見つけて、自分がたっていくところ見つけるということね。
山口
梅田校長が果たされた役割は大きかったということでしょうか。
有田
大きかったと思いますね。あの頃何を残したかというとね、価値の転換ですね。僕らはそれを自分でやってきているから、世の中の変わりに対してしたたかですよ。そのときどきに何かをやってきているから我々の世代というのはタフですよ。
笠井
あの頃は親もわからないわけですよ。子供をどうすればよいか、まして、自分がどうすればいいかわからないわけですからね。私たち息子や娘は自由にやっているでしょう。先生はわからないでしょう。学校の規則はたいしたことないしね。校舎は壊れているし。あの頃に何が大切かというと、自分の物差ししか信じられなかったからね。絶対強いから。
石亀
自分の身幅を知ったというのは大きいよ。
中村
僕も梅田先生にはお世話になった。僕は長崎を脱出したかったのに、親がウンといわないんだね。で、僕は校長室を訪ねたんだ。僕は東京に行きたいんだけど、僕の考えは間違っていますかと聞いたら、梅田先生は間違っていないというんだね。行きたければそうしたらいいじゃないかと。じゃ先生、私の親父を説得してくれますかというと、いいよと二つ返事なんだ。二日ほどして、先生が家に来てくれて、親父と談判してくれてokになって、それで東京に出てきたんですね。
山口
先生達に自信があったというのは、私たちの世代でも感じました。よくいわれたのは、「君たちは普段は右を向けといっても向かないけれど、いざというときはやるんだからあんまり心配はしておらん」と。そういわれると、何かやるときはしっかりやらなければいけないかなと思っていました。
さて、今日はたいへん濃い話を伺うことができました。どうもありがとうございました。

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